取手物語〜取手より愛をこめて

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zoom RSS 「悪魔の手毬唄」 本筋と側面〜磯川警部、20年来の想い

<<   作成日時 : 2006/11/14 21:00   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 4 / トラックバック 4 / コメント 6

先日、ブタネコさんとめとろんさんの「悪魔の手毬唄」に関する記事を2つ拝読して、

(ブタネコさん http://buta-neko.com/blog/archives/2006/11/post_329.html
(めとろんさん http://blogs.dion.ne.jp/metrofarce7/archives/4466397.html#more

20年前に読んで、すっかり忘れてしまっている原作を読み直そうと決めた。

その前にあらためて映画、市川版「悪魔の手毬唄」を私なりに再考してみる。
当然上記の2つの記事の内容に感動し、本記事を記述するにあたって、その内容を参考にさせていただいております。


「悪魔の手毬唄」  1977年  東宝

監督 市川崑
原作 横溝正史
脚本 久里子亭

主演 石坂浩二



市川+石坂の金田一は過去に5作品。他の方の記事(ゴーシュさん 「リカさん」 http://kame15ya.jugem.jp/?eid=31)のコメントにも記したが、その中で私が一番好きなのは「悪魔の手毬唄」である。

横溝正史原作で、金田一耕助が登場するからには本筋は当然ミステリーである。
金田一耕助が深い闇を解明していく。そこが本筋で一番のみどころである。
しかし、横溝作品はただの探偵ものではない、様々な本筋に絡む側面が存在する。金田一が謎を解明すればするほど、その側面が浮き彫りになってくる。そこが横溝作品の奥の深さである。

この原作を理解し、映像化している点では市川版を上回る映像作品はない。
つまり、本筋は謎解きであるが、核は側面にある。製作者が軸の置き場所を間違えてしまうと、横溝作品の奥深さが存在しなくなり、ただの謎解きになってしまう。

余談になるが、私としては市川監督に東京を舞台にした中短編の原作を是非、映像化してほしかった。個人的には東京で探偵事務所をひらき謎を解く、中短編が非常に好きなのである。



最初、「悪魔の手毬唄」を鑑賞したのはまだ子供の頃だが、その時からこの作品が一番好きである。しかし、当時は深い考察はない。
ただ、磯川警部の存在、そして金田一との出会いの場面、その関係、そしてラストシーンが他の作品にないもので、その点とさらに重苦しいまでの哀しみ、その点から非常にこの作品に惹かれた。


原作の話をすると、「悪魔の手毬唄」は横溝の代表的な作風、見立ての連続殺人だが、書かれた年代が「獄門島」「犬神」よりあとで、めとろんさんの記事にあるように、横溝はある挑戦をこの作品でしており、その融合がもたらした作品で、見立ての元となる手毬唄に関しても新しい挑戦をしている。

先述の通り、本筋は謎解きである。
その本筋に新しい挑戦として横溝正史は2つのトリックを使用した。この点はめとろんさんのおっしゃる通りである。

ひとつは当然、見立て連続殺人。しかも見立ての元が古くから村に伝わる手毬唄で、ここでも横溝正史は新しい挑戦として、既成のものを見つけるのではなく、手毬唄自体を創作している。
この創作に関しても、めとろんさんの記事に横溝正史の言葉で記述があり、そして童謡殺人を一度やってみたかったともある。これは非常に参考になった。

ふたつ目は、“顔のない死体”。これにより、一人二役の解明を難解にし、恩田を謎の人物としてより効果的に成立させている。
しかもこの作品においては、他にも一人二役が存在し、最初に金田一耕助がそのワナにはまっている。

そして、更に重要な点として、犯人が非情の運命を20年前に背負わされてしまう。つまり、タイマーが動き出すかもしれない非情の時限爆弾をしかけられ、自らの手でそれを解体せねばならないという・・・

この横溝の新たなる挑戦が「悪魔の手毬唄」に成熟された完成度をもたらしている。
更にこの作品は、謎解きをする金田一耕助自身が哀しみを感じてしまう・・・


そして側面の奥深さが他の作品にはないものがある。
横溝ファンで、ミステリーの描き方を心得ていて、しかも横溝作品を深く理解している市川監督、当然この市川版「悪魔の手毬唄」も奥深さ、完成度が高くなるのは当然である。


その様々な側面の存在、それが、この「手毬唄」、横溝正史の凄さ。

そして、以下にあげる2つの側面は、ブタネコさんが記事で記述されている点でもあり、私も同感である。

話を市川版に戻す。

その側面の中で一番はやはり、磯川警部の青地リカへの『愛』である。

この『愛』がある故、磯川警部は金田一耕助を鬼首村によんだ。磯川の期待通り金田一は事件の闇を解明するのだが、それが皮肉というか、非情なまでの真実を暴き出してしまう。
それは磯川が望んだことでありながら、結果は望んだものではない・・・

そして、もうひとつあげると里子の存在。これも非常に深い。里子は半身赤痣である。
多々良放庵が言う、「妊み女が強い火の気に近づくと生まれる子に赤痣がつたわる」。
リカは里子を不憫に思っていた。
リカの過去の、そして現在も含めた全ての報いがこの里子にふりかかる。
そしてそれが犯人の目をさまさせ、罪の深さをおもいしらせる。

非常に、いや非情に深いというか、恐ろしいというか、いつもながら言葉を失う・・・


そして市川版で私が非常に印象深いのは、魔の沼・“人食い沼”の存在である。

青地リカが言う、
「仁礼のだんなさん、言わんでつかぁさいあの沼のことは、思い出すのも耐えられんのですけぇ、あの沼のことは・・・」

タイトルが映し出され、その後、画面に沼が映し出される。

金田一耕助は磯川の到着前に既に事件にまき込まれる。放庵に手紙の代筆を頼まれる。しかし、その原因は犯人のしくんだワナにあった。

続いて沼の畔にたたずむ金田一耕助の画。

この画を見る度、わたしは厳密には意味が違うが、金田一は悪魔に呼び込まれてしまったとの思いを強く感じる。


事件の調査が進展していくと必ず放庵と恩田幾三にたどりつく。恩田は放庵の住まいの離れを間借りしていた。その放庵の住まいがあるのが沼の畔。
そして、青地リカの言葉、20年前、リカの亭主、青地源治郎が殺害された場所が、その恩田が寝泊まりしていた沼の畔だったのである。

そして、真相が解明され犯人がその身をあずけてしまうのがこの“人食い沼”。
犯人自身、そして犯人の様々な感情をも、全てはこの沼がのみこんでしまう・・・

犯人が沼から引き上げられた時、歌名雄が犯人の顔をみたいと走ってくる。
慌てて歌名雄を止める磯川、
「いっちゃいかん。」
「放して下さい、殺した奴の顔を見たいんだ。」

金田一が近づいて言う、
「磯川さん、歌名雄君の好きなようにしてあげたらどうでしょうか。」
磯川は驚き金田一を振り返る。その一瞬の隙をついて歌名雄は犯人の死体に走り寄る。

「うそだぁ〜!!」

歌名雄を叫び声が沼に響き渡る・・・

金田一耕助の真のやさしさからのセリフ、そして現実としての衝撃と哀しみ。
この沼でのシーンは大変印象的である。


そして、最初に述べた子供の頃にも感じた作品全体に満ちている重苦しいまでの哀しみ。真相を解明していく金田一耕助さえもその真実に驚き、苦悩し、深い哀しみを感じる。
それも結局は磯川の『愛』を知るからである・・・
そして、その重苦しさの中、金田一と磯川の関係、笑顔が余計に脳裏に焼き付く。

そして、私が語るまでもないラストシーン。
非常に印象に、心に深く残るシーンである・・・

この「悪魔の手毬唄」は青地リカの亭主への、磯川警部のリカへの、様々な人の、様々なかたちの『愛』が存在し、事を引き起した作品。

ミステリーの醍醐味としては、「獄門島」「犬神家」のが優れているかもしれない。
それは「獄門島」での動機、3つの条件の揃い方、そしてその動機の崩壊などの恐ろしさ。「犬神」にも共通する、亡人の怨念、更に「犬神」関して言えば、至上の愛から転じるその怨念に、姿なき力に動かされる点。そして動機と見立てとの奥深いつながりの点などの存在。
それが「手毬唄」にはない。

しかし、「手毬唄」には他の2作品にない側面、見立て殺人への元となる動機の『愛』が純粋な『愛』、それは恨みはに転じただろうが、それは実は自分自身へのもので、決して怨念に転じない、けがれなき『愛』が存在し動機となる。純粋な『愛』故に哀しみもより深いものとなる。

側面に比べ、本筋が弱いかもしれない。
これはミステリーとしては致命的である。しかし、「手毬唄」は元がそういう作品。

つまり、この作品には他の作品のように殺人に対する深い怨念が存在しないのである。実行犯自身も殺人によって、なんらかの自分が得る目的を達しようとするのではない。
ただ、仕掛けられた時限爆弾を解除せねばとの思いである。愛する者の後始末。つまり動機自体が他の作品より弱く、放庵に対しても恨みの念はあったであろうが、深い怨念の存在は薄いと思われる。

また、もう一つの一人二役も実行犯の単純なる殺人の為の手段で、深い意味はなかった。それが金田一の出現で、彼を引き込み、以外なる深み効果をおこした。
しかし、連続殺人の動機と見立てとの間には深い関連性はない。
横溝は自らの挑戦として、あえてこのような作品にしあげたのではないだろうか。

話を映画に戻す。

見立て連続殺人と20年前の殺人、謎の人物・恩田と謎の老婆、そして“人食い沼”の存在。横溝作品の代名詞ともいえるおどろおどろしい雰囲気を十二分に出しながら、磯川警部との友情を絡め、純粋な『愛』による深い哀しみに全編が包まれている。
それが「悪魔の手毬唄」。
そこに成熟された完成度を感じ、それは当然原作がそうであるからである。


磯川警部のあのセリフがいつまでも耳に残る・・・
「金田一さん、犯人は・・・リカさんか・・・」
金田一は無言で、ハッキリと頷く。

ブタネコさんの言う、『情』がこの作品には満ち溢れている。

私にとっては、やはり「悪魔の手毬唄」は非常に秀逸な作品であり、市川5作品中、一番好きな作品である。


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と、ここまで作成した段階で、めとろんさんの『思いつき「悪魔の手毬唄」考』(http://blogs.dion.ne.jp/metrofarce7/archives/2888237.html)を全面的に改稿したことを思い出し、拝読した。
そして私はその深い考察に感動とショックを受けた。

私は、「手毬唄」は好きな作品であるが故、何度もみた。しかし、それは結局、最初にみた印象をひきずり、深く読みとろうとせず、その最初の印象を毎回毎回楽しみ、確認しているにすぎなった・・・・

さらなる奥を読み取ろうとしなっかったのである。この記事を書いている今の今まで。

めとろんさんの記事を参考の上、再々度、考察してみる。見立ての必然性について。


「悪魔の手毬唄」、このタイトルを私は手毬唄が見立てに使用されたことにより、恐ろしい悪魔の数え歌に転じた、と解釈していた。

しかし、この作品にも悪魔が存在する。

それは、金田一耕助の言葉でも表されていた。
金田一が警部や恩田と関係をもった3人の女性達の前で恩田の正体を明かすシーン。
磯川警部が問う、
「(源治郎の一人二役を)リカさんがそれをしったのは?」
金田一、
「放庵がわざとしゃべった。」

そして心底、亭主を愛していたリカは源治郎を殺害してしまう。引き金を引かせたのは多々良放庵という色と欲まみれた悪魔。この悪魔は怨念も抱いている。村で勢力争いをする2つの家に。つまり、代々庄屋をつとめていた多々良家、ということは元々この村の一大勢力だったわけである。それが、自業自得ではあるが、道楽三昧で由良と仁礼にかなりの土地を安く買いたたかれてしまったのである。

そして、リカは時限爆弾の解体の罪を放庵にきせようと鬼首村手毬唄の見立てとする。

ここで、原作の話をする。
めとろんさんは、記事で手毬唄は放庵が創作したのではないか、との可能性を関連文献と共に記述している。
記事を読み、私もそれは否定できない思いがする。

ただ横溝は今回、既成のものではなく手毬唄も創作した。その点から民間伝承と庄屋の放庵の利用して村に古くから伝わる唄であることを表現したかったのかもしれない。
しかし、めとろんさんの記事から放庵が執拗に手毬唄にこだわっている点が非常に気になる。
古くからある場合、それは“できすぎ”との意見もあるだろう。しかし横溝はその偶然の衝撃と旋律を表現したかったのであろう。
放庵の創作の場合、それはリカへの牽制の意味だったのであろうか。
放庵は由良家と仁礼家を恨んでいる。所有していた土地を安く買いたたかれている。その為に・・・、しかし唄は3番まで、それは手毬唄が奇数で終わるのが通常なのだが。いや恩田の娘の点を考えると3羽のすずめで、ちょうど奇数でよかったのか。

しかし、市川版では由良の隠居は手毬唄を唄い終わったあと、
「私らの娘じぶんのこのような手毬唄が流行りました。」と発言している。

放庵の創作でないとすると、手毬唄の3羽のすずめが恩田の娘、3名と一致するのは恐ろしい程の偶然である。
そして、民間伝承にこの手毬唄考を書いているのは放庵であるとの発言シーンも描いている。

市川監督はこの辺りをどうとらえたのか、真意の程は不明である。
しかし、市川版からは放庵の創作ととれる部分を私はみいだせない。


手毬唄が放庵の創作にしても、昔からの既存のものとしても、手毬唄と放庵が深く関係していることは確かである。その為、リカも見立てに使用するのである。

つまり、「悪魔である放庵の手毬唄」ともとれる。


しかし、もう一つある。別の意味が・・・
リカは放庵に罪をきせる為に手毬唄を利用した。本当にそうであるのか。
逆ではないか・・・

リカがいつ手毬唄の存在を、歌詞の内容をいつ知ったかは市川版では不明である(私の記憶が確かならば)。しかし、それを知っていたのは事実で、それ知ったことが、つまり手毬唄がいつかは解体しなければならない可能性のある時限爆弾の解体の実行を後押ししたのでは。

めとろんさんの記事で私がハッキリと確信したことがある。
横溝正史はプロローグで鬼首村手毬唄の全文と由来を記しているとのこと。そして「返された、返された」の一節が「殺された、殺された」を意味しているという解釈も記述しているとめとろんさんの記事にある。
(タイトルなのだから当たり前のことだが、私は全く気がつかないでいた。大変恥ずかしく思う。)

つまり、横溝はこの作品における手毬唄の存在の重さ、大きさをそこで訴えているのである。

それがプロローグで最初に記述していることから明らか。そして手毬唄をよく知る放庵が執拗にこだわった点を描いているのもそうである。創作にしろ、既存の唄であるにせよ、放庵はこの唄の全文を民間伝承に掲載する必要があった。そして人に知れる様にする必要が。多くの人に知らせる必要なないはずである。村人にしれればよい。そうすればリカが知ることになるからである。
横溝は、この作品のカラーというか、性格、話の流れの中で、犯人に語らせることなく、金田一の憶測の形でしか表現しなかった。これは確信した。
それが横溝正史がこの作品を書く際に作り上げられた“世界”であったのだろう。

ただ言い訳ではないが、市川版においても当然、セリフにも、画にもリカが手毬唄に衝撃をうけるシーンなどは一切なし、リカがどのように手毬唄を知ったかのシーン、セリフもない。金田一がその辺りを推測でしゃべることもない。市川監督はどうようにとらえたのか・・・
めとろんさんの記事に、
>金田一「だから、リカは『民間承伝』という小冊子のことも『鬼首村手毬唄考』のこともしっていたと思うんです。そして、その手毬唄にうたわれている三人の娘というのが、たまたまじぶんの亭主をうばった三人の婦人の腹にうまれた娘たちと一致するとしったとき、リカは非常な感銘をうけたにちがいないと思うんです。
おそらくそのじぶんからリカは潜在的にしろ、こんどの事件の計画をあたためはじめたのではないでしょうか」
との引用がある。原作では記述している。
市川監督は潜在的にという部分でそうしたのではないだろうか。ということは映画上表現されていない。
この点を思うと私の最初の感想のが無理がないように思う。
しかし、それは完全に間違いである。原作はあきらかに手毬唄の存在の大きさ・重要性、を表現し、その歌詞の一致から、リカがうごかされた点を上記の通り記述している。
市川監督のこの作品に対してもった“世界”からはあえて描く必要のない部分であったのうだろうか・・・

人の気持ちはどうなるか不明である。時限爆弾のタイマーは動かないかもしれない。しかし、動き出した。リカは手毬唄の存在を知らなくても殺人を実行せねばならなかった。しかし、手毬唄の存在、創作にしろ、偶然にしろ、その歌詞の現実との一致。それを知った時のリカは激しい衝撃と旋律を憶えた出あろう。そしてそれがリカを突き動かした。
この作品にも見えない力がはたらいていた・・・
めとろんさんのおっしゃる通り、
>「手毬唄」そのものが、犯人を触発し、事件を起こさしめた"動機"そのものであった。

私が先述した、
>連続殺人の動機と見立てとの間には深い関連性はない。
との記述はとんでもない間違いである。
そして、以前に記事にしたこの映画に関するブログのタイトル(http://toridestory.at.webry.info/200609/article_6.html)も。

“見立ての必然性がない”や“タイトルにまでなっている重要な問題が、ただ読者の興味をそそるための道具立てにしかなっていない”との評論されている都筑道夫氏。先ほどまでの私と同じ意見なのだが、それは正しくは・・・・

私の先述の本筋が弱いとの記述も訂正の必要がある。

鬼首村手毬唄自体が悪魔の存在。これは放庵が創作したとしても同様。
リカが手毬唄を利用したのではなく、手毬唄がリカを突き動かしたのである。
まさしく「悪魔の手毬唄」・・・


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市川版で、リカはどこで手毬唄の存在を知ったのか。民間伝承からであろう。民間伝承に「鬼首村手毬唄考」として手毬唄全文を紹介したのは放庵。そして、放庵には欲望と怨念があった。怨念は由良家と仁礼家に。その為に20年前には恩田に協力したフシもある。創作かどうかは別として、やはり全て放庵の・・・
やはり見えない力が・・・・・今の段階では私はそう思う。
奥の深い作品である。犯人が語っていないだけに・・・
やはりこれが横溝の狙いだったのであろうか。

ある意味、真犯人は彼。この点もめとろんさんの意見に同感です。

そして、再度自分の記事を訂正せねばならない、怨念も存在したと。
ただ、その対象が両家の存続に関わる者でないところがやや弱いといえば弱い気が・・・


市川版「悪魔の手毬唄」という作品において、再々考察した今でも「獄門島」や「犬神」と違い、私が一番強く感じるのはやはり『愛』。純粋な深い『愛』が満ちている気がする・・・この思いは変わらない。
故にブログタイトルはあえて変えずに、投稿する。

めとろんさんの記事のおかげで大好きなこの「悪魔の手毬唄」を勘違いせず、より深く考察できたことをこの場で、感謝いたします。
そして、ブタネコさんの記事にも大変共感し、感動いたしました。

私としてはやはり早い時期に原作を読み返したいと思います。
そして最後に、非常にまとまりのない文章であることをお詫び致します。

来春、1月5日、フジで稲垣金田一の新作「悪魔の手毬唄」が放映されるらしい。
この奥の深い作品、はたして出来はどうだろうか・・・

※訂正 フジの稲垣金田一は「悪魔が来たり笛をふく」のようです


※私のこの市川版「悪魔の手毬唄」の最新の感想は、

  http://toridestory.at.webry.info/200702/article_1.html

  に記述してあります。

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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
ふむふむ。感心して読ませていただきました。
横溝正史も深いですよね。おそらく人気が続いている理由の一つにイエロースト−ンさんらの分析ブログ記事っていうのもあると思います。それぞれがいろんな捉え方をする、そしてそれが波状に広がっていく・・。また新たに謎が解けたら記事にしてくださいね。

それにしても手毬唄、録画切れが悔やまれます^^;
映画のせかいマスター
URL
2006/11/15 12:06
こんばんは。
コメントありがとうございます!
この「手毬唄」本当に奥が深いと思います。今、原作読み始めたところです。
作品の録画切れは本当に残念ですね〜。
イエローストーン
2006/11/15 18:18
 こんにちは、原作は未見なのですが、映画の感想を書いた後に、こちらのブログを読みましたら、深い感想に関心しました。TBしたかったのですけど、ウェブリブログは、なぜかうちのブログからはできなくて……。
 私も、この物語はミステリーとしての側面より、「業」や「愛」のあり方としての描写を感じました。映画は風景の映像にまでそれが感じられて、とても良かったと思っています。
わだ
URL
2007/01/26 00:29
わださん、コメントありがとうございます。
「手毬唄」は市川+石坂版の中で一番好きな作品です。
「愛」を深く感じ、側面の奥深さを強く感じます。
石坂浩二氏が当然いいのですが、やはり市川監督に原作の理解度が優れている点が一番重要なところだと思います。光と影の使い方など、映像的にも実にいい作品だと思います。
イエローストーン
2007/01/27 11:36
TBありがとうございました。

いやぁ、一行一行、感心しながら読ませて頂きました。
私も映画好き、いいえ邦画や金田一作品好きなのですが、
正に脱帽です(笑)
この「悪魔の手毬唄」も何度も何度も観ていて、台詞まで真似をするくらいなのですが、
こちらの記事には感心しきりでした。

今後とも宜しくお願い致します〆
まなぶ
URL
2007/01/29 22:58
まなぶさん、コメントありがとうござます。

まとまらない長い文章読んでいただき恐縮です。
私も金田一とくに、市川+石坂版が大好きで、中でもこの『手毬唄』が一番好きなもので非常になが〜い記事になってしまいました。
あくまでも私の感じる部分を記述したのですが、こういう事だというのではなく、見た方がそれぞれ、いろいろなことを感じればいいのだと思います。それ位、奥の深い作品ですよね。
こちらこそ宜しくお願い致します。
では!
イエローストーン
2007/01/30 21:07

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