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zoom RSS 金田一耕助、そのヒューマニズム・・・。 (再追記)

<<   作成日時 : 2007/01/11 21:18   >>

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今一度、市川版「犬神家の一族」において、原作でいうところの金田一耕助のヒューマニズムについて再考および、原作を含めた点で私なりに再考してみる。

まず、市川版「犬神家の一族」、もちろんオリジナルでの再考。
そのヒューマニズムとはもちろん最後の「しまった」のシーンである。これは一度記事にしています。

「犬神家の一族」に見る金田一耕助の真実 」(http://toridestory.at.webry.info/200610/article_8.html

しかし、今回今一度再考しようと思ったキッカケは、よく私がお邪魔し、私なんかよりはるかにミステリーに、そして横溝正史作品(原作、映像作品ともに)、金田一作品にお詳しいブタネコさんがこの点についての記事(http://buta-neko.com/blog/archives/2007/01/post_1000.html)をお書きになり、原作から入られたブタネコさんは私と違う思い、そして原作にもそうとれる記述があるとお書きになったことです。

記述の前に申し上げて置きます。
当然、映画を鑑賞された方がさまざまな思いをしてかまわないんです。原作が頭にあるか、ないかでも変わります。違う人間ですのでそれがある意味当たり前です。他の方の思いを否定する気はもちろんございません。あくまで私はこう感じるということを書きたいのです。
そして、私にとって違う意見をお聞きすることは、特に思い込みの激しい自分にとっては、貴重であり、新鮮であり、楽しいのです。
つまり今、この時、理由がなんにせよ金田一の記事を書いていることが楽しいのです。そしてまたこの記事に、同じまたは違うなど思う方がいらっしゃる。それが当然だと思います。


さて、前置きが長くなりましたが、前に一度、市川版「悪魔の手毬唄」に関しては、その思いを変えた点がありました。実はその点も若干あったんですが・・・。

参照記事(http://toridestory.at.webry.info/200609/article_6.html
      (http://toridestory.at.webry.info/200611/article_15.html

さて、今回は、う〜ん、やはり私の思いは前と同じです。クドイようですがあくまで市川版「犬神家の一族」(1976年)でです。

金田一耕助は明らかに一度、松子婦人に目をやっています。婦人がタバコ入れに手をやったまさにその時に。そして目線をそらす。目線を正面にもっていき、下方にやり一度目を閉じる。そしてその後、なんともいえない表情で下を向いている。

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ここに私は、“見てはいけないものを見てしまった”との思いを感じます。

そして、下を向き、その後目を閉じ、松子婦人の言葉をじっと聞いている金田一耕助。
私は彼は迷っていると感じます。つまり、松子婦人が全てを終えた今、生きながらえようとしていない事は金田一は当然気がついています。そして、彼はそれを決して、止めないでしょう。
ただ、彼は迷っている。“まさか、この場では・・・。佐清君も目の前にいる・・・。この場では毒入りタバコは吸うまい、いややってほしくない”
私はこう感じるのです。

そして、迷いながらも、状況はすすみ、婦人の言葉に目を閉じて耳を傾けていた金田一は婦人の言葉がとぎれた時、直ぐさま目を開け、まさかっと婦人を見ます。

そして、あのセリフです。

「しまった!」
(やはりこの場で・・・)

その驚きの表情・・・、私は何度みてもそう感じます・・・・。


リメイク版では当然劇場で1度しか鑑賞していないのですが、金田一の驚きがさほど感じられません。
あとで「金田一です。」を読んでその理由がわかりました。主演の石坂浩二氏自体、そのように演じていないのです。つまりは市川演出もそうだということです。その辺りは 「市川崑の金田一耕助 〜「金田一です。」(石坂浩二著) 天使のような風来坊2 (追記) 」(http://toridestory.at.webry.info/200701/article_1.html)でも記述しました。
リメイクには、複雑な思いをもっています。前半の画にはいいところを感じるのですが、結局は不満な点が多々あると言うことです。
この点も不満な部分で、私はオリジナルのが好きです。



そして、原作にあるところの金田一耕助のヒューマニズムについて、ここから少しややこしくなりますが、原作はもちろん、“市川崑の金田一耕助”にもその部分は感じます。
このヒューマニズムについての思いはハッキリ言って混合しております。つまり同一のものを感じるということです。

まず原作「悪魔の降誕祭」。これも何度もブログで記述していますが、ここで今一度。
以前は、私の思うところの詳細はあえて書きませんでした。
読んだ方がその文章からいろいろなことを想像、また感じてくれればいいと思ったからです。
「悪魔の降誕祭」にみる金田一耕助の真実(http://toridestory.at.webry.info/200609/article_25.html
今回は、あくまでも私の感じるところを前よりも詳しく記述してみます。


>「悪魔の降誕祭」での犯人、それは悪魔の申し子。しかし、最後は自分で入れた青酸カリ入りの紅茶を飲んで死んでしまう。
金田一耕助が自殺の機会をあたえたのである。そこで金田一耕助と初めて仕事をした所轄署の久米警部補に等々力警部が発したのがあのセリフ。

「あっはっは、いやね、久米君、君はこのひとと仕事するのははじめてだろうが、これが金田一耕助流のヒューマニズムとでもいうのかね。おかげで事件は解決できるが、ホシは逃がしてしまうということがちょくちょくあるよ。つまり、そのためにこのひとは、最後の瞬間までわれわれに手のうちを手のうちをみせないんだからね。・・・・」

この事件の犯人、悪魔の申し子はある人物を殺す目的で青酸カリを紅茶に入れた。それに気づいた金田一耕助は、その場の一同の気をそらし、スキをみてその人物と悪魔とのカップを入れ替えたのである。
久米警部補がそのことを指摘すると金田一耕助は、
「はぁ、(カップに)放りこんだものが毒とははっきりわからなかったし、それにまさか僕は、あれを飲もうとは思わなかったもんですからね。」と答える。
すると等々力警部が安楽椅子から身をおこして、目玉をぐりぐり廻転させながら突っ込むように訪ねた。
「金田一先生」「あなた、それはほんとうですか。(犯人は)あれを飲まんだろうと思ってたのですか。」
金田一耕助はそれにたいして答えなかった・・・


この中編になるのかな、私は非常にすきな1編なんですが、最後、金田一が何も答えず、無言だった点、ここに私は同時に二つのことを感じます。一番にはは、これは金田一が確信犯であったことを表していると感じます。金田一は犯人がそれを飲むと思っていた。黙認した。そして同時に哀しみを感じます。たとえそれが凶悪犯、悪魔であろうとも、自分が黙認して逝かせた事に対する哀しみ、それを私は感じます。
そして、その前のセリフ、
「はぁ、(カップに)放りこんだものが毒とははっきりわからなかったし、〜 あれを飲もうとは思わなかったもんですからね」

この発言に私は金田一耕助、彼の苦悩を感じます。つまり、彼はカップを入れ替えれば、犯人は死んでしまうことを知っていた。その行動の決断にいや苦悩があった。やれば死ぬ。ただ、この犯人に関して“どの点からみても一点も同情する余地のない鬼畜生をはっきりしった”と金田一は述べており、まさしくその悪魔である正体をしってその行動をおこした。彼の中で殺してしまうというよりもこの場合、悪魔に自殺のチャンスを与えていいのか、との迷い、苦悩を感じます。それは起こす前のわずかな瞬間か、いや瞬間は彼は迷わず行動したとも感じます。悪魔の正体を知ってしまった彼はそこは即座に行動を起こした。その後に、その決断したことへの自分への問いかけというか、苦悩があると私は思います。つまり、その辺の詳細の真偽はともかく、苦悩の心情があのセリフを言わせたと私は強く感じます。
他の方はどう感じるかは当然私にはわかりませんし、横溝正史がどうような思いをつたえたかったのかそれも分かりません。私は文章を読んで、そう感じました。つまり自分自身への発言だったと。自分へいいきかせているように私には思えてなりません・・・。

私は彼の、原作でいうところのヒューマニズム、私が感じるところのハードボイルド、その裏には当然、金田一耕助なりの苦悩と哀しみが存在すると感じます。そこまでをふくめて、そのヒューマニズムが好きであり、魅力を感じ、一般的な意味あいとは違いますが私はハードボイルドを感じるのです。つまりは優しさ・・・です。

そしてこの金田一耕助の独自のヒューマニズム、この背景には原作における、その生い立ちと彼の性質というか根っからの気質、うまくは表現できませんが、これがおおいに関係していると私はおもっています。この点は以前、記事にて記述させていただきました。

>金田一耕助。
生涯独身。その人生で愛したとされる女性は数人。しかし女癖が悪いとの説もある。19歳で渡米し、一時麻薬に溺れたことも。また、東京では何度か探偵事務所を開くが、つぶしてしったこともある。また久保銀造や同窓の風間俊六などパトロンが存在し、住居も風間の愛人の旅館に転がりこんだこともある。また酒も煙草もやり、推理力はあるが、生活力のまったくない男である。戦争にいっており、また戦後の闇の時代を経験してきた男である。
これが、横溝のほっした根っからの風来坊のキャラであり、その時代背景も影響し、あのヒューマニズムが生まれる(作者自身のおいたち等も当然影響する)。

「根っからの風来坊、それが金田一耕助」(http://toridestory.at.webry.info/200609/article_46.html)より、抜粋。



それは映画・市川版「獄門島」でも私は感じます。
犯人への感情は別だとおもいますが、基本的な心の動きは同じものを感じます。

了然和尚が犯行を自白したあと、金田一は和尚に頼まれ、本鬼頭へいったシーン。
勝野が早苗に話しを終えたあと、
勝野は、「喉がかわきましたなぁ、何か冷たいものでももってきましょか」と席を立つ。

部屋を出て行く勝野に、金田一は振り向き、あわてて後を追うと立ち上がる。が、部屋の隅までいき、彼は立ち止まり、勝野の後ろ姿をじっと見つめている。そして目を下に向け哀しそうな顔をする。

やはり私はこの行動に、金田一の中での苦悩を感じます。哀しみを感じます。そしてあのヒューマニズムを感じます。無言で逝く勝野を、見送る金田一・・・。
そして、そこに、彼の、金田一耕助のその姿、思いに、私はハードボイルドを感じます。
つまりは優しさ・・・。

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「悪魔の降誕祭」は別にして、やはり基本的には私は市川版が元になっていますね。原作は詳細をもう忘れてしまっています。

今、「悪魔の手毬唄」を読み直している途中ですが、実はその中であるひとつの思いがでてきています。それは市川版で一度変えた思いが、その詳細な部分でまた違っておもえているのです。あくまで市川版の感想、思いはかわりません。原作としてその文章から違うものを感じています。読み終えた段階で記事にしたいと思います。

そして、そのあと「犬神家の一族」の原作を読み直そうと思っています。一番のキッカケはこれもブタネコさんの記事です。
「しまった」の件もありますが、珠世についてが大変興味を惹かれました。市川版と原作はかなり違うと言う点。
これは原作を読む前に、その思うところをすぐに記事にしたいと思っています。

いや〜、前の記事にも書きましたが、ほんといろいろなことを与えてくれるし、記事を書くことが非常に楽しく思います。








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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
推理小説でもぃぃ本ゎ何度でも読み返すことが出来ますものなぁ。
最近便利な本…「僕たちの好きな金田一耕助」てのが出たので、それ見ながら順番に読み直してみるつもりですぁ。
おれゎ「蝙蝠と蛞蝓」が好き。
ani.
URL
2007/01/15 23:43
ani.さん、コメントありがとうございます。
「蝙蝠と蛞蝓」ですか。詳細、忘れてますね。金田一の原作もほんとんどをオークションで手放してしまってるんで。
機会をみて借りるか再購入して私も読み直したいと思っています。
イエローストーン
2007/01/16 00:03

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