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この記事は、私の映画への想いである。 【後記】にも記述しているように、友人と酔って映画の話になり、ホロ酔い気分のまま勢いづいて本音を吐いた次第である。もちろん、この日は泥酔はしておらず、意識はあった、まさにホロ酔い。 ただ、多少熱くなりすぎて、誇張というか、調子にのった感はある、それが裕次郎に関する記述であるが、まあご愛敬ということで、ご勘弁願いたい。 とにかく、これが私の映画に対する想い、こうであってほしいという願いと言ってもいい。 以下、本文。 『映画とは、光と影、職人の技の結晶。そして映画とは、娯楽、大衆の娯楽である。』 私は今日、酔っています。 すごく気分がいい。 あえて、酔った勢いで本音を・・・。 友人E君と飲みに出かけて、映画の話になった。 そして、今更だが、意気投合、意見がビッタリ合った。 映画とは、なんぞや。 映画とは、 映画は娯楽、 大衆娯楽である。 よく映画は芸術だという意見を耳にする。 それを耳に、目にする度に私は、それでも控えめに抑えながら、噛みついた。 それは用心棒さんもそう、プロフェッサーもそう、冨田さんも同様。 私の中で、拒否反応をおこし、ムキなごとく・・・。 私は基本、映画は楽しみたいのである。 よく、批判することが、重箱のスミをつつがごとくアラをさがすことがが通のごとく勘違いしている輩も一部にはいるが、そうではない(もちろん上記のお三方のことではありません。彼らの映画への想い、知識、感性等には私は大変尊敬の念を抱いております)。 たしかにそのような作品も中にはなくはない。 しかし、映画とは、その時間を、なんというのだろう、楽しくするものである。 それは、文字通り、ハラハラドキドキの作品でもそうだし、シリアスなものでもそうである。 涙をながしてもいい、心震わされるものでもいい。感動でもいい。 それが楽しんでいるのである、その作品を。 たしかに、つくり手の技術はある。 光と影。 その技法、その職人、映像職人としての、こだわり、技。それは芸術の域である。 映画とは所詮、光と影。 この市川監督の言葉が私は全てだと確信して疑わない。 そこに、職人としての芸術的といえる技法、技がフィルムにおさめられていることは間違いない。 しかし、職人技であるばこそ、それはみせびらかすことではない。 わかる人だけわかればいい。 これが、間違った解釈されることがあるのだが、職人技はさりげなく、そのこだわりを込める。 それは、とてつもない浪費の結晶であるが、それを決して職人は、映像職人は、強く主張はしない。 それが当たり前なのである。気がつかなくてもいい。自身のプライドの問題。それが職人。 決して、おおっぴらに自慢することはしない。それが職人としての粋、その気質。 私はそれを、非常に尊重したい。 そして、もし、映画は芸術だとつくり手側でいうものがあれば、それは傲慢以外の何物でもない。 例えば、黒澤監督の「椿三十郎」。 あのラスト。 普通に鑑賞して、だれがあの弧刀影裡流を参考にした殺陣に気づきますか? あの長い間のあと、一瞬できまるあのシーン、だれが左手の逆手で刀を抜いていることに気がつきます?! 私も、映画の特集でいわれて初めて気がつきました。 別に、ハイスピードで撮ったわけもなく、ピリートするわけでもない。 黒澤監督があのシーンへの解説や、説明をしたことはない。 しかるに、あの一瞬のシーンへのこだわり。 あれこそ、職人技。作品へのこだわり。 解る人だけわかればいいという問題でもないと私は想う。 あくまでも、映像職人としての、作り手側の、こだわり、技、作品の完成度を望んだ故である。 芸術の域、技とは作り手側の中でだけ、こだわればいいことであり、見る側はあくまでも一般大衆。 ブログをやっている方は、全てではないだろうが、中には私のように、別に読んでもらわなくてもいいという想いの人も中にはいるだろうが、大体において、自分の書いた記事は、書くからには多くの人に読んでもらいたいものである。私も諦めつつも、書くからには、読んでほしいとの想いが心の奥底にはある。 映画の作り手も、職人であればこそ、つくるからには、多くの人にみてもらいたいはずである。 そのこだわりは自身のプライド、職人としての意地であり、そこは別に自己満足であり、全ての理解はのぞんではいない。いや、逆に、職人気質をおもえば、誰にでもわかるようなこだわりは納得できないかもしれない。 素人なんかに気づかれるような技はつかっていないとの想いこそあるかもしれない。 先日、スマスマのSPで小津、溝口、黒澤の特集をドラマ仕立てで放映していた。その中で、小津のローアングル、光の反射をきらい畳を極力映さないこだわり、これなども鑑賞する側に画に違和感をもたせない、こだわり。そのドラマの中にもセリフであった。“見る側はそんなこと気にしますか?” もちろん気づかなくていいのである。それは一切の違和感を、鑑賞側に感じさせずに自然に画をみせる配慮であり、こだわり、その技なのである。 また、「犬神家の一族」、市川監督は犬神家の大広間の金の襖、その発色が悪いと全てを張り替えさせた。犬神家の一族が勢揃いするシーン、その光り輝く金をバックに一族が座ることが、あの一族を象徴する上で、非常に重要な画であり、そこが市川監督がこだわった部分なのである。 それ故にこそ、完成した作品自体は、細部へのこだわりをもったからこそ、多くの人にみてもらいたいはずである。 そして、何人の人が気がつくか・・・・。それは決して自身では言うことではない。ましてや職人自身で、芸術などどは・・・・・。 これが職人ではないだろうか。 1人でも多くの人に、大衆に、みてもらいたい。 作り手の本音である。 また、映画とはそうあるべきである。 映画の芸術性は認める。しかし、それは映像職人として、作り手の中での技法としてのこだわりであって、作品の完成度を高めることには間違いないが、作品はひとりでも多くの人にみせたいもの、いや、見せるものである。 それが映画という、職業としての、興業としてのさだめである。 映画が興行収入をえている以上、必要とする以上、多くの人に、そして誰が見てもいいもので、映画は間違いなく娯楽である。逆にいえば、興業収入を得ないものは、私の概念では映画ではない。 故に、どう撮れば、鑑賞する側に、違和感のない最高の画がみせられるか、そこにこだわり、技をこめる・・・。 それ故に、作り手側は決して見る側にこびてはいけない。 例えば、画をセリフで説明してしまうようなことは決してやってはいかない。 それこそ、「椿」の最後の決闘シーンをみならってほしい・・・。 私は映画をみて、それは深く理解し、細部にわたる想いであり、感想なりを鑑賞後に語れることは素晴らしいと思うが、それが到達点では決してないとおもう。 ただ、おもしろかった。それでいいのである。 おしろかった、つまらなかった。作品にとっては、つまらなかったはいただけないが・・・。 何か、何かひとつでもかんじればいい。 それはあるシーンでも、ある動作でも、ある一言のセリフでもいい。 アノ映画のあのセリフ、あれがよかったな〜でもいい。 映画をみて、何か一つでもかんじれば。 心に深く刻まれ、心に深く残ればそれでいい。 それは当然、全体の作品として全てがよければそれにこしたことはない。 しかし、そうではない。 あらゆる人がみていい映画。 そうであるべき映画。 結局は、おもしろかった、つまらなかったのどちらかでしかない。 それが究極の感想でもある。 あらゆる人にみてもらうことが前提であり、そうであるはずである。 映画は特別な、難しいものではない。 誰がみてもいい。 そうであるからこそ、決して映画は一般的な意味では、決して芸術ではない。 娯楽である。 それは作風をとわず、泣させるものも、シリアス内容のものも全て、一般公開するからには娯楽なのである。 私は、映画をむずかしいものにしたくないのである。 気軽に、多くの人にみてもらいたい、そしてその映画を楽しんでもらいたい。 多くの異論、反論があるであろう。 それはそれで、かまわない。 他のかたは、それぞれに映画への想いが、考えがあるであろう。 それは否定はしない。しかし、それに自身の主張として、反論は絶対にする。 現に今までそうして、噛みついてきた。 たが、それはそれでしようがない。 しかし、私の想いは、いかなる反論を、主張を、説明をされようが微動だにしない。 映画とは芸術ではない、映画とは娯楽である。 一般大衆が、それをみて、喜び、笑い、感動し、泣き、考えさせられる。 何かしら心動かされる、それはある一つのシーン、一つの動作、一つのセリフだけかもしれない。 それでいい。それで十分である。 2時間のうちの、一瞬でもいい。つくり手の想いが、一瞬でもつたわればいい。 それが職人としての喜び。それが映画。 大衆の、誰がみてもいいものであるものに、いやそうであるからこそ、細部にこだわり自身の技術を込めてつくりあげる、そしてそれを、決して細部を自慢しない、それが職人としての粋であり、神髄であり、よろこび・・・。 それが映画、多くの人に愛されるべき映画。 芸術性はこめられ、そうであることは事実であるが、けっして映画は芸術であるとはいわせない。それは断じて・・・。 確かに金はかかっている。映画は金があればあるほどいい。あるにしたことはない。 だが、映画はそうでなくても当然つくれるし、それこそ職人の意地、技が発揮されるであろうし、そうだからこそ、映画はたいそうなものであってはならない、映画とは身近ななもの、身近な、大衆の娯楽。 決して、芸術であっては、そんなものであってはならないのである。 そう映画とは、だれにでもみることができる、だれがみてもいい、一般大衆の、大衆の、娯楽、大衆娯楽なのである。 余談 私は私なりに、自身で好きなカット割りであったり。アングルであったり、構図、カメラワークがある。 私は基本的に細かなカット割りがすきである。 故に、その多大な功績と偉大さは否定しないが、小津や溝口の画は、わたしは好きではない。 もちろん、場面によっては長まわしは有効である。 しかし、基本、固定カメラは私は好きではない。動きがない、セリフでわからせる場面であるほど、私はカット割りが重要であると感じる。 評すれば、それらのものを評すれが、所謂酷評に、私がすればなる。 それは、映画というものをわかっていないなどと、いくらいわれようがセンスの問題。私の感性ではキライなのだから、しようがない。 まずいものは、他の人がいくらうまかろうが、たとえ私以外の全ての人間が美味いといっても、私がまずけれがそれはどうしようが、まずいのである。それと一緒。 センスがいい、悪いとよくいうが、それはあくまでも自身が基準であるだけでセンス、感性とは正にそれぞれなのである。しかるに、センスがいい、悪いなどということはナンセンスなのである。 あくまでも私的にそうであり、あとおしする、一般的なのはその数の差なのである。まあそれが常識になるのだが・・・。 あの監督は、あの画はセンスがある。それはあくまでも自分本位で、一方的な見方でしかない。 わたしはセンスがあると想う、というのが正しい。これは誰にいわれようと間違いのはずがない。 そのセンスがいいとは、他の人は決してわないのである。 何がいいたいか、脱線したが、その映画への私的なこだわり、つまり本のできであったり、構図、カメラワーク、カット割りなどにあったのだが、かつての日活を、旬の裕次郎の映画を見たときにそれはみごとに崩れさった。 いや、逆に衝撃だった。 当時の映画、あの量産体制の中でありながら、いやそうであるからこそ、映画というものがあった。職人として製作していた、量産であるからこそ。金の使い方も今の比ではない。ほとんどがセットで組んでいる。 その構図、まさしく映画の構図であり、撮り方も非常にこだわりのあるいい画が多い。 今ではみられないような、非常に逆に新鮮であると感じさせる画がけっこうある。 だが、そんなものをあまりかんじさせない、勢いが、もちろん短い期間で量産している中でありながら、技は当たり前のように、もちろんそうであったのである、きちんと職人としてのこだわりをその短い中でだして撮っているのだが、それが関係ないものを感じた。 そう、石原裕次郎。 そのスターとしての存在。 本や、画などを超越したその存在感。芝居がうまいとか下手とかではない。輝くその素材としての資質。 これが本当の映画スターなんだと、私は非常にショックでした。 映画とは監督のもの。 よく、俳優で主張をして、脚本をかえさせたり、監督と議論する奴がいるがそれは誰が何と言おうと間違いである。 真の役者とは、監督の望むとおり、いかなる注文にも対応する、できる演技力があるのが真の俳優である。 俳優が主張するのは、そのあたえられた演技の中で、自身をいかに主張するか、主張すれがいいのである。 映画は、監督のいうとおりに、いわれたままに演じていればいいのである。 そのいわれた通りにやることが正に役者としてのプロフェッショナル。 そして、映画とは監督の思い通りにできなければ、決していい作品にはならない。 もちろん、いろんな主張も監督が納得すればいいのである。 要は映画とは監督のものであり、主演俳優のものだは決してない。 だが、裕次郎をみたときに、それが・・・。 真のスターの前では・・・。 私はあの時、はじめて監督や本など関係がないものがあるんだと、 真のスターの前では、そんなものは関係ないんだと、とてつもなく、非常に強く感じた。つい最近なんですけどね。 役者のうちから輝く魅力、それを魅せることでも成り立つ場合が、いかにその素材を魅せるか、いや、 いかなるものでも輝いてしまうスターの輝きを感じた。当然時代もある、それはわかっているが・・・。 はっきりいって、なんてことない。裕次郎でなければ、当時の旬のスターでなければなりたたない。 何て言うのだろう、いいですよね〜。裕次郎。足は長いし、カッコいいんですよ〜。 健さんもそのカリスマ性はいやという程感じ、健さんをみせてくれればいいという想いがあるが、裕次郎をみたときも同様に、いや、これは正直あまり期待していなかっただけに、それ以上にショックだった。 このブログに裕次郎の映画記事を書いた時は、できるだけ映画としての感想をと想い、抑えた内容になっているが、けっこうショックだった。 もちろん、全て私的にで、好みの問題であるが。 なんだかんだ、脱線したが、今一度いう。 今日は酔ってはいますが、自身の気持ちに偽りや、ましてや変な、意固地な想いはありません。 真にこう、いや、こうであってほしいとの想いです。 そして、あくまでも私的な想い。 逆にいえば、この想いに反するもの、つまり、一般大衆へではなく、一部の人限定に製作されるものであったり、先日鑑賞した、「不都合な真実」のようなドキュメンタリーは、私の概念では映画ではない。 一般公開し、興業収入を得ることを目的とし製作される映画、つまりどんな人がみてもいい映画、多くの人に鑑賞されることで成り立つ商業としての映画は、やはり娯楽である。 映画とは・・・、 そこには映像職人としてのこだわり、技がこまられている、それは芸術の域であろう。 しかし、それは、決して芸術ではない、映画、それは、それは娯楽である。だれがみてもいい、大衆の娯楽である。 いや〜、ヤッパリ酔ってるか〜。 わかんね〜かな〜、この想いが・・・・・・・・。 まあ、いいんだけどね。反論があっても、わかってもらえなくても。 自身のおもいだから。 そして、どうであろうと映画に対する熱い想いが、映画が好きであるという熱い想いが共通であれば・・・・、 最終的にはそれでいいか・・・・。 【後記】 昨晩、友人E君と飲みに出かけ、映画とは?という話になり、やっぱり娯楽だろうと意見が一致した。 そのことに、気分をよくしたのと、勢いで、本音をはいてしまった。 ただ、これは酔ってはいたが、きちんと憶えている。まあ、記事に偽りがあるとしたら、意固地でないという点か、十分にムキになって自身の想いを主張している。 ただ、実はこれは以前から書こうとおもっていた内容だが、迷って、躊躇していたのである。 あまり我をだしすぎることは・・・。 ただ、最近、酔ったいきおいで、様々な思いをされけだしているし、またこの件については、他の方の記事に反論する形、そう“映画は芸術だ”という内容を目にするたびに、その方のコメント欄にて自身の想いを反論として主張し、議論させていただいていたわけで、きちんと自身の記事でその想いを主張してこなかった。 その点が、卑怯というか、やはり自身の記事で想いを記述しておくべきであると、前々から思っていた。 それがようやく、できたということである。 もちろん、異論、反論を持つ方が大勢いるかもしれない。 単純な内容のものしたか、鑑賞しない人間のひがみかもしれない。 しかし、これが私の偽りのない映画への想い。 そして、他の方はそれぞれに映画に対する想いがあるであろう。 そこで現にそうしてきたように、互いに意見を主張しあい、映画について語ることはとても楽しくもある。 たとえ、鑑賞するジャンルが違えど、想いが違えど、映画が好きであるという熱い想いは共通であるのだから・・・・。 ただ、近年はその職人技がアナログでなく、デジタルになってきているが、これも職人としての技には違いない。 ただ、私のいっている本来の意味とは違うけど、まあ技には違いない。 しかし、いかにデジタル処理しようが、映像である限り、基本は光と影。 それが映画であると思う。 【追記】 私が、お邪魔する冨田弘嗣さんのブログ「活動写真放浪家人生」、この中で冨田さんは、映画は娯楽芸術だと表現されている。 非常に、素晴らしいと表現だと想うが、先日も直接コメントを入れさせていただいたが、やはり私には、ちょっと違和感があるんだな・・・・。 【再追記】 映画は誰がみてもいい、そして気軽に、肩を張らずに、難しいことをなど考えずに、楽しんで鑑賞してほしい。 映画を鑑賞するときにこうしなくてはや、こうするべきだという事などなく楽しめばいい。 もちろん、それができて楽しめる方はそうすればよいし、そうすることが楽しむことだという方もいるであろう。 それは素晴らしいことである。 ただ、ひとつだけ、鑑賞する全員が、こうしなくてはならないことがあるとすれば、スクリーンに、映像に、音に、映画に集中さえすればそれでいい。 上映時間中、映画にはいりこみ、楽しめばそれでいい。そして何かを感じればそれで・・・。 映画とは監督のものであるが、公開した時点で、それは鑑賞者のものにもなる。 監督は自信の想いをその画にこめ、それが伝わるように、画が美しくなるよう精魂こめるが、ひとつの画に対し、鑑賞した全員がまったくの同じことは決して感じはしない。だからといってつくり手側は鑑賞側に媚びてはいけない。それは大きな誤りであるのが、とにかく、そこには様々な想いが、つくり手のものとは別の、鑑賞する者の想いが加わってくる。 鑑賞する大衆からすれば映画とは娯楽、鑑賞する側が楽しめればそれでいいのである・・・・。 私はそう信じて疑わない・・・・・・。 【最後に】 さまざまな映画への想い、楽しみ方があるであろう。 これは最初に言ったように、こうであってほしいという願いであり、私の想いです。 楽しみ方は人それぞれ、ただ、頭の悪い私には、難しいことを考えて映画を鑑賞したくないし、できないんですね。 ただ、集中し、自分の感性で、その映像から感じることしかできないし、それ以上はやる必要がないと想っています。 そうしなければ私は映画楽しめないんですよね〜。 やっぱ、頭悪いのかしらん・・・・・・。 |
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『ヌーヴェルヴァーグ』D〜ゴダール&ドロンの作品って!?〜
今から17、8年も前になりましょうか。『ヌーヴェルヴァーグ』の製作発表のニュースを映画雑誌で読んだとき、わたしは周囲の人間たちにそれを伝えました。あんまりにも驚いてしまったからです。 ...続きを見る |
時代の情景 2008/05/28 00:48 |
『百一夜』A〜「新しい波」から見たアラン・ドロン〜
わたしにとってのこの作品は、ドキュメンタリスト集団ヌーヴェル・ヴァーグ左岸派のアニエス・ヴァルダが、“映画人アラン・ドロンをどう見ているのか”を知ることのできた実に興味深い作品でした。アラン・ドロンの出演はほんの数分ですが、この短時間のシークェンスに彼のスター・俳優・プロデューサー、そして実業家としての素顔までもが、すべて描かれているように感じることができました。さすが才女ヴァルダ監督です! アラン・ドロンとは全く縁の無かった左岸派のインテリが、ここまで彼を鋭くとらえていることに驚きを禁じ... ...続きを見る |
時代の情景 2008/05/28 00:51 |
『ヌーヴェルヴァーグ』B〜ゴダール&ドロンの共通点、それは映画の大衆性ではなかったか?!〜
ヌーヴェル・ヴァーグの時代以後、「BBC」の1980年代以前、丁度その中間に位置する1970年代、ポスト・ヌーヴェル・ヴァーグと呼ばれた世代の映画監督であるフィリップ・ガレルは『ヌーヴェルヴァーグ』を評して、次のように語っています。 「『ヌーヴェルヴァーグ』ですごいと思うのは、ゴダールのような左翼とドロンのような右翼とが、互いに衝突しあうこともなく、一緒に仕事をすることができたということです。」 【参考 『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン1 30年前から、ゴダール!』 フィルム・アート社、1... ...続きを見る |
時代の情景 2008/05/28 00:55 |
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
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はじめて、書き込みをさせていただきます。 |
トム(Tom5k) URL 2008/05/28 01:12 |
それから、私もお付き合いさせていただいている「キネマじゅんぽお」のジューベさんという方も映画に関わっては、イエローストーンさんと同様の捉え方をされているようです。 |
トム(Tom5k) URL 2008/05/28 01:13 |
トム(Tom5k)さん、こんばんは。おひさしぶりです。 |
イエローストーン 2008/05/28 01:49 |
まあ、記事の通りなんですけど、私の鑑賞する作品が単純なものばかりというのもありますが、やはり映像職人としての技、こだわり、芸術ともいえる映像美を追求していようとも、鑑賞する側にとっては、映画は娯楽、大衆の娯楽であるべきだし、そうであったほしいという、あくまでも私の頑固な想いであり、願いなんです。その上映中、その作風(悲劇だあろうと喜劇だろうとアクションだろうとヒューマンだろうと)にかかわらず、夢の中へ連れって行ってくれる楽しいものであると。そう、そうであると信じています。 |
イエローストーン 2008/05/28 01:59 |
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