取手物語〜取手より愛をこめて

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zoom RSS 続々・散りゆく花

<<   作成日時 : 2008/05/24 13:49   >>

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映画『YASUKUNI』、記述はこれであってるのかな?
公開の問題などもあり、これについての記事を読んでいて感じることがある・・・。


あくまでも私の感じた、私の想いである・・・・。


要は、以前「散りゆく花」で記述したとおり。


戦争の意味、それにいたる経緯を検証することは重要である。
そして戦争の責任、その時代の帝国主義、国の体制は過ちである。

しかし、繰り返しだが、その「時代感」が違う今、議論しても、議論することはかまわない、そして過去の経緯を検証することも、そして責任を追及するのもいいであろう、しかし、時代が違う今、議論して正しい結論が導きだせるのか。ナンセンス。

その経緯、責任の解明をなくして戦死した方々の、その死が報われないとするのは順番が違う。きれいごとである。
人の死を何とおもっているのか・・・・。

現実を見ていない証拠である。
検証、戦争是非、戦争責任、それを追求、検証するまえに、決してするなとはいわない。することは重要である。
未来の抑止の為にも、検証は必要であり、また同時に振り返るばかりでは予知と予防はできない。
だだ、やはり、そんなことをする前に、どちらが仕掛けたとかいう前に、実際に多くの兵士と民間人が、戦争によってなくなられた。人の殺し合いによって。その亡くなった方達を慰霊することを第一にすべきである。

まず、理屈を抜きに慰霊をしてから、その死の意味を考えればよい。
慰霊もせずに、その死の意味を考えるなど・・・・。

そして、慰霊の話からは離れるが、
過った過去であろう、しかし、我々が今すむ、この地を守ろうと戦ってくれた彼ら。
末端の兵士には、愛国心や、国の体制など関係あったのか。
ただ、家族を、愛する人を守りたかったのが本音であろう。
その彼らを、讃えることが何故、戦争美化なのか。
それが責任を、死を美化し、精神論のすり替えなどに何故なるのだろうか。

いや、実際に戦死された方々、兵士・民間人のおおくの戦死者の方々の前で、戦争の責任や、それにいたる経緯の検証など、そんなものは後回しであろう。その死の意味を知ることが真の供養だなどどすることは屁理屈以外なにものでもない。
まず、その死を、人が亡くなられた事実をうけとめ、まず慰霊であろう。
真相や、意味を知ることなど、それがかわらないと故人がよろこばないなどとは、それはキレイゴトでしかない。
なにをまずすべきか、位牌のまえでまず、何をします。
まず、手をあわせませんか・・・・・。
何の理屈を吐く必要がありますか・・・・・。

別なんです・・・・。



国の、軍上層部など、ごく一部の人間なのである。問題なのは。まあ、その一部が実際に動かしていたのだが。
そうでなければ、全員が戦犯になる。実際に戦争にいった兵士も、工場で兵器をつくった者も、日本国民全員が戦犯であり、犠牲者でもある。きれいごとを抜きに、現実を見た場合疑う余地はない・・・。



私は、難しいことも考えず、その時代に生き、その流れの中で、愛するものを守る為に戦場へいった、死んでいった末端の兵士達を思うときに、なぜ、民間のなくなられた方と一緒に慰霊できないのか疑問でしかたがない。

そして、慰霊することとこれも分けるべきだし、彼らのその勇敢な想いを、事実勇敢に振る舞った者もいるだろう、そう、泣きながら、死にたくないと、震えながら戦地で死んでいった者のいるだろう、彼らの真の勇気をたたえ、そして、同時に戦争の愚かさ、狂気を知ることが重要なのである。
それが何故美化、精神論へのすり替えなのか・・・。

死ぬことが、何故美しいなどと表現できるのか。
勇敢であり、讃えるべき勇気、行動であるが、決して美しくはない。そして決して戦争を肯定などしない。
何故と、そして愚かで、哀しく、虚しく、狂っているとしかいいようがない・・・・。人殺しにいくのである・・・・。

末端での事実を知ろうとせず、大きな流れだけを見ることは、実に危険なことである。




我が国の近隣諸国への行為、これを隠すことは当然してはいけない。

しかし、実際に末端で戦った兵士達の想い、その勇気と、国の体制、戦争責任は分けて考えるべきである。
それは全てを一緒くたにする、おろかな発想・・・・。


まさに帝国主義、侵略の果てのその報いが全世界から攻撃を受けた。過ちであった。
私は今、冷静にこう思える。
しかし、当時にいれば当然、戦地へ行って戦う。
鬼畜米英と教えられた時代、その流れの中で生きた場合、
命令であるし、何故とか、経緯などをかんがえていたら、家族が、愛する人間が・・・。
やめましょう、やはり、ナンセンス・・・・。



ただ、私がいいたいのは、散々いっているのは、

戦争での様々な面を、同時に語ることは、全てを一緒くたにする愚かな発想であるということ。

兵士の英雄視=戦争美化、神風特別攻撃隊=戦争美化・戦争肯定、死=美では決してないということ。
その勇敢な姿からは悲惨さと、何故という疑問、そして戦争の狂気しか伝わってこない・・・・。

末端の兵士達の、国を、いや、愛する人達をまもろうとし戦ったその勇気、その勇敢さを讃え、
そして、何故彼らが人殺しをしなかならなかったのか、死ななければならなかったのかをきちんと見つめ、
戦争の悲惨さと狂気をしるべきなのである。

問題は、その彼らの勇敢な姿を、その勇気を利用し戦争を正当化しようとする愚か者がいることである。
そしてその愚かな、汚い奴らに初めて使うことができるのが、戦争美化、戦争肯定なのである。



そして、戦争について考える時に、一番にすることはまず戦死された方々の慰霊からすべきということ。

死んだものは生き返らないから、慰霊などは、またその死の意味が理解できないから、慰霊などはあとというのは、哀しい、愚かな思想でほかならない・・・・・。





最後に、

戦死された方々は、やはり祖国で成仏され、慰霊されるべきであろう。それが筋である。
また、国としては国際的な、反日感情を考慮し、その感情が静まる努力をするのが筋であり、正しい道である。
靖國のあり方には多くの問題があるであろう。

しかし、「靖國で逢おう。」を合い言葉にそれぞれの戦地へ散っていったその時代に生きた若い、末端の兵士達。
彼らの想いまでを、否定することが軍国主義か、右か・・・(私はガチガチの右翼なので説得力がないか・・・。)。
そんな彼らの想いまでも、否定は絶対にさせない。

戦犯が慰霊されていることも事実だが、この末端の兵士の想いがこめられているのも事実、その時代に生きた彼らの純粋な想いなのである・・・。
そして、末端のかれらの想いのが間違いなく純粋で、大多数を占め、そして重いのである・・・。

A級戦犯は別として、末端の兵士の英雄視=戦争美化、神風特別攻撃隊の英雄視=戦争美化、英雄視=戦争肯定は私は決してゆるさない。歪んだ、哀しき、愚かな思考である。
一部の軍上層部の人間たちの為に、勇敢に戦った彼らの思いが侮辱されることがあってはならない。
彼らは、まちがいなく英雄なのである。





空をみあげてみる、真の青空がみえているか・・・。
その曇天の向こうの、光がみえるのか・・・・・。
空のすべてが見えるのか・・・・。
一度にその全てが・・・。

いや、実は何もみえていないのかもしれない・・・。






【余談】

歪んだ思想をする代表的な集団がいる。

愛国心=軍国主義も成り立たない。
そもそも、国歌を起立して斉唱しない、国旗を掲揚しない輩が人を指導する立場でいいのか、国旗や国歌について法ができるなど哀しくバカげたことである。
強制、強要する、またされるものではない。当然である。
しかし、自身が所属している、住んでいる国の国旗と国歌である。誇りとその敬意を持つことが、軍国主義なのか・・・。
自身の国の国歌を斉唱しない、国旗を掲揚しないような輩に、国(地方か)から給料を支払うことはない。
また、誇りと敬意をもてないのなら、それが自由だというのなら、頼る気もないであろう。
真の自由をみずからもとめればよい。
そう、日本国籍をすてるべきである、誰がみてもそれが道理、そして真の自由を自身の手でつかめばよい。







【後記】

やべえ、休みのまったりしている昼下がり、またその曇り空に反し、熱くなってしまったぜ・・・。
しかも、極端やな〜。




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