取手物語〜取手より愛をこめて

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zoom RSS 映画とは娯楽、大衆の、万人のもの。決して難しいものにしてはいけない・・・。

<<   作成日時 : 2008/06/14 01:40   >>

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例によって、また酔って記事を書いてしまった・・・。
時間は深夜1時40分のようである。ハッキリおぼえていない。

週末は、オリーヴのカクテルで赤ワインをやるのがここ最近のオキマリである。
一本あけ、いい気分になり、そして私の悪いクセで攻撃的になる・・・・。
普段の疑問について、自身で、自身に違和感を感じる点について、そうではないと攻撃してしまう・・・。

そして、心にある想いが、文章はメチャクチャかもしれない、また読んでいて気にさわる方がいるかもしれない。
かなり傲慢な、言い切った文章である。しかし、あくまでも私が思うことろなので、断言して当然なのだろう。
ただ、これが私の理屈など関係のない、本心、本音なのだろう・・・。

それ故に、他の方の思想、想いは否定しないと、尊重するといいながらも、ついつい熱くなってしまう・・・・。



だが、結局は、出来る人はやればいいと、感じることから全てがはじまると、全員でないにしろ、そうすべきだと、映画の見方にこだわっているの面は自身でもやはりある。
そう、用心棒さんがおっしゃてくれたコメント、

>イエローストーンさんはよく自分やトムさんとのスタンスの違いを言われますが、そう大きな違いはないのではないでしょうか。

彼の言うとおりなのであろう・・・・。(しかし、さすが、彼は私とちがって大人である。)

ただ、全員がそうあるべきであるという点が、私には最大の違和感なのであろう・・・・。
そう、意識することなく、回数をみて感じて、自然とそうなるべきであると・・・・・。


しかし、このクセ、やめたほうがいいね。何度も反省しているのにね・・・。
酔って記事書くの・・・。

今回もあえて、削除せず記事を残します。要は、これが本心なのでね・・・・。






映画とは、娯楽である。
そう、大衆の娯楽、それ以外何物でもない。
けっして、芸術などではない、あってはならない。

つくり手にとっては、また別である。
つくり手は、その画に映像職人としての技とこだわりを十二分に注がなくてはならない。
そして、ある種、傲慢さが必要。
そう、この画がわかるのかと・・・・。

けっしてそのレベルをさげてはいけない。それはつくり手の責任。
それは見る側が一切心配することではない。
そう、互いの立場と関係をこえて世話を焼く必要は全くないし、そうんなものいらないのである。


これは私の個人的な想いである。
人さまざま、映画への想いがあろう。
それは決して否定しないし、間違いであるはずかない。
私はその思想を否定したり、その思考の矛盾をつこうなどとは一切おもわない。
それは人それぞれでいい。

そして、これは私の、誰にも否定されることのない、そんなことはさせない私の映画への想いである。

そう、映画とは娯楽、誰が見てもいい、大衆の娯楽。


映画は見方がある。そう映像の読解力は必要であることは確かである。
また、様々な知識がより、映画の理解を深め、楽しみ方の幅を広げることは確かである。

だが、それは出来る人がすればいい。
それをできない人を、映画ファンと呼べないなどとは決していわせない。

映画は、感じればいいのである。
映画とは、それを鑑賞するのに、知識や勉強など全く必要ない。
そんなことはありえない。
映画とは誰がみてもいい。
そして、ただ感じればいい。
当然、それ以上のことを出来る人はすればいい。
ただ、感じればそれでいい。
それが全て。

面白かった、つまらなかっただけでいい、それはある意味、究極の感想。


異論、反論は多くあろう。
しかし、私は映画を決し手難しいものにしたくない、いや、そんなものであってはならないのである。
そう、つくりてには一般概念において芸術であっても、いやそうあるべきであろう、しかし、鑑賞側にはそんなこと微塵も関係ない。映画とは楽しめ、そして感じればいいだけである。

私は映画が大好きである。
その映画に対する知識、映像や、制作に関するまた、公開作品に対する知識は乏しいが、通と言われる方にも絶対に負けない程の、イヤ実際まけない、映画への愛がある。

映画は誰がみてもいい。
映画を見るのに知識はいらない。
映像の見方など必要ない。
映画があたえる影響など、それは映画の見方の問題ではない。それを見る人間の、常識の問題であって、表現の「自由をおかしては決してならない。
映画を見ることを、難しくしては決してならない。
より楽しむことができる点は否定しない、しかし、楽しむことに知識や勉強な皆無。
ただ、集中して感じればいい。それが全て。

映画とは、大好きだから、誰よりも愛しているからこそ、あえて言う。

映画とは、所詮映画。
鑑賞側には、あくまでも楽しむもの、その画の芸術性など関係ない。
それを鑑賞して感じればいい。
それだけ。所詮、映画。
それが映画。
それが愛すべき、尊い映画・・・・。


だれに理解されようともかまわない。
しかし、私には映画が芸術などとということは一切通用しない。
映画とは、大衆の娯楽、いかに芸術的内容であろうと、娯楽以外なにものでもない。

そして、見る側にいかなることも求めてはいけない。
いや、私も映画の見方はあると思う
しかし、映画はそうではない。
万人のものなのである。

一部の通な人のものではけっしてない。
そうであれば、映画が大衆のものでなくては、私は愛せない・・・・。

映画は、いや、映画をみることを決して難しいものにしてはならない。
映画とはだれがみてもいい、大衆の楽しみ、そう、娯楽、それ以外なにでもない。




感性への響き、知識への誘発。
心揺さぶる訴え、無からの触発。
無意識への介入、映像への移入。

それが全て、自然に行われるのが理想。


知識や、意識は素直さと感想を妨げる場合がある。
鑑賞して、人とそれぞれが感じるもの、それが全て・・・・。

鑑賞者は、様々なことを感じる。
ただ、それをうまく表現できないだけである。
自身の文章表現力、いやただの表現がヘタまたは、しないだけで、ただおもしろかった、つまらなかったという人でも、感じたものは多くあるのである。
それを自己で表現しないだけ。

それを責めてはいけない。
それは自身で感じていればいいだけのこと。
そう、全ての人が評論家ではない。

あくまで、ただの鑑賞者。
このただの鑑賞者にみせるために、映画は存在する。
万人が楽しめない映画は、映画ではない。

そう、これは私の想いである、私の映画の概念。
一部の人にしか楽しめない映画は、食べ物でいえば単なるエサである。
そう、食べ物は、その基本は万人に愛されなければないない、それが大前提。

映画も同じ、全ての人にあいされなければ、カタワ同然。
私には、映画として認められない。

反論があればいくらでもどうぞ。

ただ、これが私の映画への、愛する映画への想い。
そう、映画は全ての人のもの。

決して一部の通などといわれる人のものだけではない。あってはならない。


故、映画とは、鑑賞側にとって決して芸術などであってなならないし、そうでは決してない。

そして、映画を鑑賞するのに、勉強や知識は全くいらない。
自身の持っている感性で感じればいい。
ただ、それだけ。

それが映画。

そう、映画とは、大衆の娯楽、それ以外なにものでもない。




知識や、頭で考えることはたかがしれている、感性にふれる、その感性で感じるものには決して勝てないのである。
それは、知識などでははかりしれない、無限の空想が、広がりが、その可能性があるから。
語ることが全てではない、言葉にできずとも、表現できずとも、その人の中で、感じたものが、それがわずかでもあれが、それでいい。
それはその人にとっては、大いに心揺さぶるものであるのだから・・・・。

この点は、誰にも否定させない。
理解できなければ、それでいい。
ただそれだけのこと・・・・・。

それ以上はない、そう、それが全て・・・・・。



今一度いう、

映画は娯楽、大衆の娯楽。

























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