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映画とはけっして芸術ではない、娯楽、大衆の娯楽である。 私の、あくまで私の映画への想いであり、そうあってほしいという願いでもある。当然他の方はどうおもわれようとかまわない、否定はしないし、決してそれは間違いではない。 いままで何度も記述してきたことである。 ここ数日、「時代の情景」のトム(Tom5k)さんより、映画に対する想いについて数々のご質問をいただきたことは前の記事で記述した。 トムさんは、別に悪気はなく、ただ私のその想いに、疑問なり、矛盾点を感じられてご質問下さったと思うのだが、いかんせん、繰り返し質問をいただくもので、 え〜、ぶっちゃけていいですか、正直、 「めんどくせぇな。俺は自分の時間をこれ以上割くわけにはいなかいんだよ。」 との想いで、(トムさん、本当にすみません。嘘がつけないもので・・・・。) 質問のお断りをコメントで告げてしまった。 トムさんは、私のことを聡明で、信頼できる人物であると過大評価されておりましたが、所詮、いいかげんな自分勝手な議論もできない人間なんですよ。そのくせ、自分の主張はする。 (めんどくさぇのはどっちだ! アレッ!!、俺か・・・・。) とにかく、トムさんのおかげで普段あらてめて考えないことを考えたのだが、その時に、やはり自身の想いだから自由なれど、かなり都合のいい解釈で、思想だなと自身でも感じた。 自分の中では、自身のさまざまな概念においては、その主張、つまり、 「映画とはけっして芸術ではない、娯楽、大衆の娯楽である。」 とは、整合性をもっているのである。自身できちんと消化しているのである。ただそれはある言葉などの私的概念と一般的概念の自身による都合のいい使い分けと、混同により成立しているのである。 芸術にしてもそうだし、まさにその概念の同居である。 そして、映画というもの、これについての概念も自身の娯楽という思想に大変都合のよい、他のものを切り捨てる考えをとっている。 映画とは、広義においては全てのフィルムや、デジタルなどのメディアを指すのであろう。 狭義においては、映画館で上映される動画作品の事である、とある。 私のは後者で、しかもなおも自身で振り分けている。 映画とは楽しむもの。 子供の頃、私の住む取手には一般の映画館はすでになかった。昔は各社あったようである。 そして日活もあり、母親などはそこで裕次郎は全部みたといっている。 私の子供時代は、すでに平仮名のにっかつになっており、通常はロマンポルノ。そして夏休み等にだけ、東映まんが祭り等を上映していた。 そこで、通常は映画は親と一緒に東京まで見に行っていた。 そして順番は前後すれど、映画をみて、デパートなどで買い物をし、食事をして帰ってきた。 まさにその行動自体が娯楽であった。 私は要は、成長がないのか、今でも映画は自身が楽しむ為に鑑賞するものだと思っている。 他に考えることはない。集中して映画を楽しむ、感じればいいと。そしてそれから更に深くへ映像を理解してきくこともできる可能性があると。 他の人は知らない。他の方にはそれぞれの鑑賞のスタンスというか、楽しみ方があろう。 私は余計なことを考えることは楽しめなくなるので、ただ感じること、それが全てで、そべてのはじまりである考え、自身そうしてきたし、それ以外はできないし、自身ではゆるぎないものであると強く確信して疑わない。 その想いからか、映画とは楽しむものである。 そして、誰がみてもいい、けっして難しく考えることはない。 映画を鑑賞するのに、勉強したり、多くの映像や映画への知識などいらないのである。もちろん、それはしてもかまわない、そして知識な豊富な方は、より多くの楽しみを得られるだろう。 だが、別に無くても問題は一切ない。 ただ見て、楽しめばいい、そして感じればいい、それだけ。 以前も別の記事で記述した通り、感じればおのずと・・・・・。 とにかく、私は映画をこむずかしいものにしたくないのである・・・。 ただ、楽しめばいい・・・・。 では、どう楽しむのか。 その映像の世界にはいりこむこと。その物語の中へ、入り込む、つまり映像という虚構のつくられた夢の中へ入り込む。これは意識しては駄目なのである。映像に集中することによって、はいりこむ。つまり集中すれば自然と連れて行ってくれる。入り込むと連れてくるは同居しないとお思いの方のいるだろうが、私の中では、連れて行ってもって、入り込む。あくまでも全て、私の場合だが。 これも、違和感と疑問を感じる方がいるだろうが、私はそうなのである。 自身で、まず感じというか、感性なのでね、その言葉で全て逃げるのかといわれると、辛いのだが、自身の意識の中ではいりこもうとはないですね。ここが正に都合のいい使いわけかもしれないが、画に集中すればそれでつれていいてくれるという感覚なんです。その集中することが要は入り込むことなんでしょう。ただ私の感じでは、意識では映像への集中だけなんですね。 そうして、私がいう夢の中へ入り込む。そう映像がつくりだつ虚像の世界へ。 そう、そしてその世界の中で、自身で感じればいい、どう感じるのか、何かをです。 実際にその世界に入っているです。その程度も各人ありますが、夢の中、その映像の虚像の世界にはりこめば、おのずと何か感じるはずです。その夢の中にいるんです。それは人さまざまながら、何かを感じるはずです・・・。 私は、映画とは、貴方にとっての映画の定義とは?ととわれると、 いつものように答えるしかない。 私の映画の概念とは、つくりもので、ストーリーがあり、そして一般公開するもの。そう、狭義での映画に非常に近い。 ただ、定義?別に定まった概念というとちょっと疑問。 すべては感性での、感じたことなのである。なので、その概念にも多少のファジーさが存在することはたしかである。 だが、やはり私の概念は、くりかえすが、つくりもので、ストーリーがあり、そして一般公開するもの。 つまり、つくりものでないと、ストーリーが存在しないと、集中してもつれていってもらえない。入り込めない。 要は楽しめないのである。逆にいえば、そうであれば私は最低限であるが、私なりに楽しめるのである、いかなるジャンルの作品なれど。 ということはおのずと、ドキュメンタリーははずれる。あれはいわば記録映画でもあると思うのである。 先日、「不都合な真実」を鑑賞したが、やはり、あのゴア氏の活動の記録で、その訴えている活動の内容が地球温暖化防止。私は感じた。これは映画ではない、私の概念では・・・・。 この場合に、私の思う、映画を楽しむということはしていないし、できていない・・・。 他には、どれがどうと今は言えない。概念があれど、あとは鑑賞して判断するしかないのである。 つまり、鑑賞して、感じて、これが映画だと思う。それを言葉にまとめたものが概念。 非常に都合のいい、切り捨てによる理論、主張だが、私には間違いのない事実。 私の中では、矛盾はない そして、映画を楽しむ上で、一番あってはならないことは、その夢から途中でさめてしまうこと、そう上映中に放り出されて、現実へ連れ戻されてしまうことである。 セミドキュメンタリーなどで、芝居部分の合間に実録の画を流し、ナレーションがはいるものなどがある。 アレはまさに、私の場合、その映像の虚構の、夢の世界から現実へ引き戻されてしまい、テンションが保てず、しらけてしまう。 また、これは私の概念においても映画にはいるのだが、いただけないのがミュージカル。私は絶対に鑑賞しない。 理解できないのである。芝居の途中で歌い出すのが、その表現方法が・・・・。 入り込んだ世界から、一気に引き戻されてしまう、私は・・・・。 そして、引き戻される事実と、理解できないことから楽しめない・・・・・。 まあ、これも非常にアバウトで、つっこまれそうだが、私にはこうとしか表現できない。この感じる部分を。 子供の頃、歳の離れていとこに、「ポール・ポジション」という映画が面白いよと言われたことがあり、レースなどが好きだった私は親いって劇場へつれていってもらっった。 私はある一つのレースを描いた、ストーリーのある、つくりものだとおもっていた。だが、実際には、レーシング・ドライバーによる唯一の世界選手権で あるF1グランプリの真実を、77年のレースを中心に、追求したドキュメンタリー映画だった。 子供心に私は、“これも映画っていうだぁ”と思い、がっかりした・・・・・。 うまく説明できないがこれが全てである・・・・。 また、私は映画のエンドロールでよくNGシーンを流すものもあるが、アレも基本的には好きではない。 その映像の、夢の世界に入りこみ、その余韻を楽しむことなく、現実にもどされる感があるアノ手法はすきではない・・・・。 エンドロールが終わり、スクリーンが白くなり、劇場内が明るくある。 そして夢から覚める。現実に戻る。だが、席をたち、劇場のロビーへむかう。そう、せめて劇場をでるくらいまで、その余韻を楽しみたいものである。 ただ、やはり作品による。例外もある。 「蒲田行進曲」のラストは好きである。あれは映画の撮影を舞台にした話なので、このラストはいい、この作品らしいと感じた・・・・。 私にとって、映画とは、つくりものであり、夢である、虚像である。決して現実と混同することはない・・・・。 私は、私の想いでは、映画を見る際に全ての方はむずかしいことをする必要はない、ただ集中して鑑賞すれがいいと記述してきた。ただ、あくまでのつくりものであることを認識する、これは必要というか、こんなことわざわざ書かずとも、分かりきったことで・・・・。 上映が終わったら夢は覚めるものである。 さめない方は・・・・、これも置いていきましょう・・・、実際に、バーチャルと現実の区別がつかない輩が今の時代いますが論外です。ほっておくしかないでしょう。 これは映像読解力とか知識など関係ない、それ以前の、もう人間としての問題です・・・・。 なんか脱線してきたが、楽しむこと、そして感じることがある意味全てで、それでいいと思っている私。 その私にとっての映画とは、 つくりもので、ストーリーがあって、一般公開するもの。 つまり、楽しめるものなのである。 この場合、ストーリーが存在すれば、どんな方でもそれを追い物語を楽しむことができる。 つまり、その真に映像を理解して、奥をよみとっているかなどは別にして、話を楽しむことは最低限できるのである。 (これができない方は・・・・、これも都合よく、置いていきます・・・・・。) 私はそうです。 いかなる、名画も、一般的にいわれる芸術性の高い作品も、その他のジャンルの映画も、その意味で私は楽しめる。 要は、概念はあるのだが、結局は鑑賞して、とにかくみて、私は、 「ああ〜、これは映画ではない、私の概念での映画ではないな。」 と感じるのである。(事前に情報があればまた別の場合もあるが。) ここで、今一度、自身に問う。 私にとって映画の概念とは。 えっ、私の映画の概念・・・・・。 概念、物事の総括的・概括的な意味のこと。 あくまでわたくし的に、映画の総括的な意味とは・・・・。 いや、ということは私に映画の概念がまちがっている。私は勘違いをしていた。 映画とは楽しむもの。そして感じるもの。何度も私は記述している。 この想いが、概念ではないのか。 そして、当然、一般的概念の狭義が加わる。 そう、私の、私的概念の広義は、 映画とは、映画館で上映される動画作品であり、楽しむもの。そして感じるもの。 そしてその楽しむ、映画の概念の条件となるものが、その概念が成立するために必要なものが、 “つくりもので、ストーリーがあるもの。” いや、正確には、私的概念の狭義といってもいいでしょう。 まとまると、私的概念の狭義は、 “映画とは、つくりもので、ストーリーがあり、その映像の虚像の中へつていってくれるもの” これが、私の映画の私的概念である。 ということは、私はいままで、自身の記述で間違いをしていた。 楽しむものという概念、ゆえに私が楽しめないものは私的には・・・・・。 すると、最初に記述した、 映画というもの、これについての概念も自身の娯楽という思想に大変都合のよい、他のものを切り捨てる考えをとっている。 この記述も間違いだったこととなる・・・・・。 となると、一層つよく、私的概念にもとづいて今まで以上に、私はつよく確信する、 私にとって映画とは、 “映画とはけっして芸術ではない、娯楽、大衆の娯楽である。” ※私的概念と一般的概念の混同と使い分けについては、また別の記事にて,いずれ、記述します。 |
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