市川崑の金田一耕助  登場人物の素朴さ・・・

今、「悪魔の手毬唄」の原作を20年ぶりに読んでいる途中である。

そこで、これも以前から思っていた市川版と原作の違いがあらためて気になった。
市川崑の金田一耕助が原作と違う点は今までこのブログで数回記述している。
http://toridestory.at.webry.info/200608/article_17.html
 http://toridestory.at.webry.info/200610/article_29.html

それ以外にも主要な人物設定を原作と大きく変えている。
以前から気になっていたのだが、「女王蜂」の大道寺智子。
原作を読んだのがかなり前なので正確ではないが、彼女は外見からして誰もが目をとめる美女で、しかも魔性の雰囲気漂う正に女王蜂のような、妖しさをもつ女性の設定であったと記憶している。
それが市川版では中井貴恵が普通のお嬢さん、いや清純なお嬢さんを演じている。これはたしか中井のデビュー作だと思うが、彼女の起用は決まっていたにしても、そのキャラは監督次第である。だれが演じようと魔性の女を演じればよいだけのこと。
つまり、あの素朴なイメージが市川崑の欲したキャラなのである。何故であろうか。
新人、佐田啓二の娘、中井貴恵のイメージを大事にしただけなのか。
タイトルにもなっている重要な人物である・・・

フジで稲垣金田一での「女王蜂」、あれは原作のイメージに非常に近いキャラ、配役であったと思う。

そして今、「手毬唄」を読み返していて、完全に忘れていた点だが、またもそのキャラが大きく違う人物があった。あくまでもひとつの側面的人物であるが。
別所千恵、芸名;大空ゆかりである。原作では彼女はグラマーガールで脚光をあびる。今でいう巨乳のグラビアアイドルである。
(追記;この現代へのたとえに関して、下記のコメントにあるようにブタネコさんからご指摘をうけました。私は“グラマーガール”という言葉だけをとらえて私なりに現代にたとえてしまい、シャンソン歌手であることはすっかり頭からぬけておりました。まぁ、スタイルのいいセクシー歌手というところだろうか。)
そして、彼女の凱旋を村をあげてお祭り騒ぎで迎える。

市川版では仁科明子が演じ、キャラもそうだが、外見もとてもグラマーではない。そして、村をあげて大騒ぎで歓迎するシーンも描いていない。その点はシャクの関係もあるかもしれないが、私はそれ以上にやはり、市川崑があえてその作品に対する世界に不要であると考えたとのだと思う。

金田一に関しては、以前に記たとおり、市川崑のイメージする風来坊=金田一耕助、これを大事にし、反戦に対する思いもこめたのではと想像する。

私より深い考察をされている、めとろんさん(http://blogs.dion.ne.jp/metrofarce7/)は、
>市川監督がもつ"金田一耕助像"="天使"というコンセプト
と表現されている。

とにかく、原作にある多少図々しく、ダーティともいえる面を一切削除している。当然、石坂浩二という人物のイメージも大きく影響しているであろうが、他の2人の女性についても純粋というか、私は素朴なイメージを大きく感じる。

上記の2作品の女性のキャラに関しては、単純に監督の好みという部分も全く否定はできないが、私はそれだけではないと想像する。

以前、めとろんさんの『思いつき「悪魔の手毬唄」考 Ⅱ』(http://blogs.dion.ne.jp/metrofarce7/archives/4466397.html#more)での市川崑監督自身のことばが非常に私は印象深く、それを思いだした。

>“「(横溝ミステリを)研究してみると、オカルト的なものがあるようにみえますが、むしろ、おどろおどろしいところなどない。文体で(読者を)そんなふうに眩惑しているんですな。本質は論理の文学ですよ、大変現代的なわけです。
ところが(会社は)オカルトをいれてくれという。だけど、原作にあるのは人間の物欲で、オカルトは、ない。

つまり、監督はおどろおどろしい雰囲気はだしたいのである。しかし、原作にその要素はない。監督の好むキャラもあるだろうが、このおどろおどろしさを限られたシャク内で効果的に表現する上で、あえて素朴さを選んだのではないだろうか。
つまり、邪魔になる要素を消すことで雰囲気をだしたかった。外見で引き寄せられる派手さであるとか、古い因習などが残る山奥に村で、都会の洗練されたものを映像化することに対して、おどろおどろしさの表現へのマイナス点、作風への違和感、抵抗等を感じ、雰囲気が壊れるのを防いだのではないだろうか。

特に市川版「手毬唄」は全編が重苦しい程のトーンにつつまれている。その点にグラマーガールは不要だったのであろう。

ある面に関して原作どおりに描かない部分が、限られた時間や監督のつよい思いの中では、逆に全体作風の雰囲気を守るという点で功を奏すことがあるのではないかと思う。

この以前から疑問、作風上ということは容易に想像できていたのだが、『「獄門島」の雨宮の存在』(http://toridestory.at.webry.info/200610/article_29.html)に続き、再度めとろんさんの記事により、真意の程は不明ではあるが、またしても深い霧が若干はれたような思いがする。

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