「八つ墓村」 本筋と側面 鶴子の深き愛~辰弥、その名の由来 (再追記) 

市川版「八つ墓村」を鑑賞し直した。

実は、ちょっと前にビデオになった以来ぶりくらいに鑑賞した。そして、非常に物足りなさを感じた。正直がっかりしてしまった。そして、今一度確認すべく、今回またみた。

市川版を見直す理由、原因、それは、フジの稲垣版「八つ墓村」が最大の原因。

ここでフジの稲垣版金田一について私の思いをまず述べてみる。


フジの稲垣版の金田一、これは最初の作品「犬神家の一族」を見たときに結構面白いと思った。それは、金田一耕助のアメリカ時代を最初に描いた点、そして彼の体験した事件を横溝正史が記述している点、これが非常に今までの映像作品になく、なかなかいいと思った。この横溝正史が記述している形式、彼が金田一耕助の事件の記録係というカタチは原作でも作品によってある。

しかし、残念ながら、興味はあったものの、やはり吾郎ちゃんではという思いがあり、さほど期待していなかったのが正直なとことで録画まではしていなっかたのだが、稲垣金田一は別にして、話はこれはっ!とまでは思わなかったが、その描きかた、こだわった点などが、けっこう面白いなと思った。まあ、ストーリー詳細はハッキリいってわすれているのが現状。

そして、2作目になる「八つ墓村」。これは前回の「犬神」が前述のように、けっこう面白いとおもったので、録画した。そして録画しているために、リアルタイムでは見なかった。他の番組を見ていた。ただ、そのCMの合間、たまたまチャンネルをフジにした時にとびこんできた画、それがあの村人が全員ではないだろうが、大勢の村人たちがあの32人殺しの格好をして、つまり頭に懐中電灯を2本さして、辰弥を殺せと騒ぎ、探し回っているシーンだった。これを一瞬だが、みて私はやりすぎ、ハチャメチャだぁ~と思って、そのシーンのその描写だけで、この稲垣版の「八つ墓村」を、全てみていないのにも関わらず、ひどい出来、ハチャメチャな作品と思いこんでしまった。そして、録画を長い間みずにいた。

そして、3作目「女王蜂」。これも「八つ墓村」のひどいという勝手な思い、先入観があり、録画はしなかった。ただ、みた。それは放映前に番組CMで興味を持った。これは原作に近い!
市川版はけっこう原作からはなれているとの思いが強い(これもいつものように原作は忘れているのだが)。私が覚えている限りでも、場所が月琴島でなく、月琴の里になっている。これは当時では島の設定はCGなどもなく、描写できなかったのであろうと想像するのだが。その他にも東京、歌舞伎座での場面が原作ではあり、登場人物についても違っていたと記憶している。そして、なにより大道寺智子、このキャラが原作と違う、違いすぎる。
それが、稲垣版は月琴島だし、歌舞伎でのシーンもあり、智子のキャラも原作に近いと番組CMをみて感じたのである。
その為、録画はしなかったが、放映をみた。なかなかよかったし、原作にけっこう忠実にえがいているのではと、原作の詳細を忘れていながらも、そう想像した。
ただ、原作には稲垣版のが近くとも、「女王蜂」は私は市川版が非常にすきな作品なのである。たとえ原作からは忠実ではなくとも市川5作品、え~、つまり市川+石坂版の、リメイクをのぞいた最初の5作品の中では「悪魔の手毬唄」の次ぎ、2番目に私がすきなのが「女王蜂」なのである。その為に、稲垣版は何度もみようとは思わなかった。たとえ原作に忠実という点では優っていようとも、まず金田一が私の中では石坂金田一をこえるキャストは絶対的に存在しないこと。そして当然、本編とTVの差はあります。監督も市川崑であるし、キャストの豪華さ、スタッフ、そして画の重みも当然ちがいます。ただそれはわかりきっていること。肝心のストーリーが、その場所や場面設定そして一部の人物が原作と違えどもやはり市川版は十分に魅力を感じ、面白い。稲垣版が当然全てを描いているとは思えませんが、原作に忠実であろうと思えます。その忠実であろう稲垣版と比較しても十分に、対抗できている。まあ、稲垣版も詳細まではよく覚えていない。友人に録画を借りたので近いうちに再見しようと思っています。そえは、最近、あらためて稲垣版の出来の良さに気づいた為である。
ただ、放映をみてすぐにまたみたいと思わなかった。それは先述の理由である。それに加えて、市川版がやはりその核のおきどころ、人間の思い、愛などを深くえがいている点、さらに市川監督が原作を愛し、そのまもるべきところは確実におさえた上で、独自の市川作品としている為、ミステリーとして、ストーリー的にも十分に魅力を感じるからである。くどいが、場所や場面設定や一部の人物設定を変更しようとも、要点は原作のポイントを確実におさえているからである点と、原作を忘れているが、全てとは思えないが、原作に忠実と思われる稲垣版と比較してもひけをとらない点からそうのように想像する。

まあ、先述の通りで、稲垣版はストーリー的に同等であれば、分ははるかに悪い。作品自体にも、私の思いというか、好みの点でも。しかし、放映時に何度もみようとは思わなかったが、ひどいとの印象もない。ということは、けっこういけていたと思う。そして、唯一、市川版より優れている点、これは放映直後から思っていた点、いや厳密には放映前から思っていた点になるが、それは当然、智子のキャスト。逆にいうと市川版での唯一の欠点ということになる。ただ、それは逆にすごさにもつながる。その欠点がありながらも、いいと感じる。いや、映像的に、原作との絡み上は違和感があるが、独自作品とした場合に、全くではないものの、致命的ほどの欠点、違和感を感じていない。これはひいき目も十分にあるかもしれないが・・・。
とにかく、近いうちに再見しようと思う。

そして、稲垣版のいいというか、有利な点としてはCGである。月琴島や、昔の東京などはCGでなくては描けない。
ただ、やはり、私の判断だが、市川版がある限り、同じ物を撮っては勝てないであろう。それは市川+石坂5作品の場合、絶対である。
「犬神家の一族」(76年版)「悪魔の手毬唄」「獄門島」「女王蜂」「病院坂の首縊りの家」、これは今後どんなに原作に忠実に映像化しようとも、私の中で市川+石坂版を抜く映像作品は絶対にでないであろう。それは石坂金田一であり、そして原作への忠実度が劣っていても、私はあの独自の、市川版のストーリー、その核とするところ、描き方に非常に惹かれる。とにかく市川版が好きであり、ある意味横溝先生には大変失礼ながら、市川崑の金田一耕助が、原作より大好きなのである。これは、原作より先に映画、つまり市川版からファンになったためにどうしようもない。

そして最新作、4作目「悪魔が来たりて笛を吹く」これは、そこそこおもしろかった。
原作に忠実であろう点、ただ、全てではない。当然シャクなどの問題もあろう。椿家での殺人が密室になっていない。原作をヘタに覚えており、しかもこの原作は私の一番のお気に入りである点から、またミステリーとして、金田一の謎解きの部分においても、密室でない点は物足りなさを感じる。
しかし、その点があるが、なかなかいい出来であると思う。それはやはり、結局は原作のスゴサ、面白さなのだが、稲垣版がそれを大事に、そしてできる範囲で忠実に描いている点である。
肝心の曲も私は昔の東映・西田版より私はイイと思う。

そして、この作品をみて、昔の東京を描いている画、これを見て是非とも他の東京を舞台にした中短編を映像化してほしいと強く感じた。
参照 http://toridestory.at.webry.info/200701/article_5.html


そして、肝心の「八つ墓村」。これを、長い間みずにいた録画を見ようと思ったのは、けっして「悪魔が来たりて」がそこそこ面白かったからではない。「悪魔が来たりて」を見たあとでも勝手に、「悪魔が来たりて」はそこそこイケタのに、なんで「八つ墓村」はあんなにハチャメチャにしたんだと思っていた。つまり、「八つ墓村」の映像作品にはロクな物がないとこれまた勝手に思いこんでいたのである。
これは松竹版はもう、金田一の風貌が絶対にゆるせない。ストーリー的には・・・、詳細は覚えていない。ただ、金田一の事件への関わり方は非常にいいと思う。まあ、これも近いうちに見直そうと思う。そして、市川版、これも風貌はいいが、トヨエツがいただけない。これが最大の理由であった。つまりこれも詳細をおぼえていない。でも出来がよくないのはそのことで確信できる。覚えていない、つまり何度も鑑賞していない。他の、所謂市川5作品は何十回も鑑賞しているのに。つまり、最初に見て、あとはみたいと思わなかったのである。ただ、市川版に間違いはないとの先入観から、原作に一番ちかいのではや、一番いいのではなどの勝手な思いを今まで述べていた。あと、他のTV版、古谷一行なども演じているが、見ていないものもあるし、覚えていない。その点が勝手ということになる。

で、結局何故、録画をみたか。それは、ブタネコさんの記事(http://buta-neko.com/blog/archives/2006/01/post_624.html)である。“良くできている。再見してそれを確認した。”との記述があったからである。そして更に記事内容をよんで、動機にかかわる部分を原作に忠実にえがいているとのこと。えっ、あのハチャメチャの作品が・・・。これは録画をみなくては、と思った次第。

その稲垣版の感想は以前に記事にした通り。
参照 http://toridestory.at.webry.info/200701/article_6.html
特に、金田一が犯人と直接対峙するシーン、これを原作通りに描いていることが非常に評価されているところである。ブタネコさんもこの点を大変高く評価されています。
映像作品ではこのシーンは大抵変更されてしまうようである。
私もこのシーンは描くべきであると(描かれたものをみてしまうと)強く感じる。


さてさて、話を戻すが、上記のように稲垣版「八つ墓村」の出来、稲垣金田一に違和感があるものの、そのストーリーの出来のよさ、つまりは原作を大事に、けっこう忠実にえがいていると思える点から、これは「八つ墓」にはろくな映像作品がないと思っていた私にはショックだった。これは映像作品では一番できがいいのでは・・・。それを確認したかった。
当然、まずは市川版。

そして、冒頭の記述、感想になる・・・・。
ストーリーとして、物足りない、ミステリーとしての面白さが十分でない。金田一が違和感があるのは当然ながら、それはあえて今回は無視する。肝心の話が・・・。

「愛」が核、核としているのだが、それも一つの愛を強く描きすぎている気がする。たしかに市川版は今までも「愛」を核としいてる。ただ、「犬神」にしても、「手毬唄」「獄門島」等市川5作品は、他の映像作品と比較してストーリー的に物足りないと感じた事は一切ない。原作と比較するとミステリー色が純粋な意味でおちている部分はあるかもしれない。市川版として独自のものである。しかし、以前から他の記事でもふれているように、限られたシャクの中で、映像作品としてある部分を強く描くことで十分に満足できる内容にしあがっている。それは、きちんと、全てではないにしろ、ココダという、重要な側面を描いているからである。
しかし、この「八つ墓村」は、核を強くえがいていることは感じるがそれが全て、それだけのようになってしまっている。つまり、重要な側面がまったくと言ってイイほど描かれていない。これはミステリーとしても非常に弱くなっている。う~ん、市川作品らしくないように思う。

それは、「愛」も美也子の「愛」だけ。つまり側面としてももうひとつ、重要な、つよく描くべき鶴子の「愛」が描かれていない。さらには鍾乳洞が全く活かされていない。これがとても市川作品らしくないと感じる。作品の奥深さ、ミステリーの面白さが全く・・・・。
つまり鍾乳洞がただの隠れ場所、抜け穴としかなっていない。鍾乳洞内の場所、その名称が描かれていない。鶴子の亀井陽一への「愛」、その愛の結晶である息子への「愛」の描き方が弱い。「竜のあぎと」に秘められた鶴子の純粋な深き「愛」、何故辰弥と名付けたか。これが要は犯人の動機崩壊にもつながる重要な点である。ここを他の面で描いているが、この名前の由来をえがかないというのは・・・・、不満である。
そして、鍾乳洞内の地図、これも陽一から鶴子がもらい、これを辰弥にわたす。最後に辰弥はこの地図のおかげで鍾乳洞から脱出できる。母の深い「愛」に救われるのである。ここの描写は描いてほしかった。

「八つ墓村」では、今回起きる連続殺人を本筋とすると、それ以外の重要な側面が複数存在する。まず鶴子の深き「愛」、これが鍾乳洞内を描くことにつながる。そして、尼子一族の怨念、田治見要蔵 のゆがんだ想い。描く時間は別にして、これらを同じ重要さで描かなければストーリーの面白さがなくなってしまう。ミステリーの面白さも、さすがに最も重要な点である動機の崩壊は描いているが、物足りない。さらには本筋でもクジ殺人になっていない。これは登場人物が少なく、なりようがない。これもミステリーとしては不足である。美也子の梅子、竹子の見分けがつゥないというセリフも生きなくなる・・・。さらには、美也子が晴代に小指をかまれる。これも市川版の美也子の最期では、全く意味が、噛まれたことによるその耐え難き苦しみが、ただの犯人であると証明する傷にしかなっていない。

「八つ墓村」が金田一ものとしては描きづらいとは思う。
事件ものの場合、一般的に事件を解く者か、犯人が主役である。探偵ものでは当然、探偵が主役になる。そして準主役、もうひとりの主役が犯人である。事件への関わり方は主観的、客観的とわかれるが、ある意味これはストーリー上、同等である。しかし、「八つ墓村」はあくまで辰弥が主役であると私は思う。事件に巻き込まれる人物である。事件を解く人間でもなければ、事件を起こす犯人でもない。原作も金田一耕助は肝心な時にフラリと村へ現れ、事件の真相が進展していくという感じであったと記憶する。金田一ものとして、映像化する場合に難しいのである。
本来であれば野村芳太郎監督の松竹版がそのスタイルというか、設定的には原作に近い。金田一メインで描く場合でも、もうひとりの主役を辰弥に、いや美也子のその想い、「愛」も重要であるが、辰弥をもうひとりの主役におく必要がある。辰弥をもうひとりに主役とすれば、鍾乳洞の地図、鶴子の「愛」、辰弥の名の由来を描かざるをえない。
さらに、存在する重要な側面が多い。物語を他の原作のように簡素化することがこれまた非常に難しい。しかし、これは脚本次第で、本筋と側面を十分に取り入れ金田一メインで描くことは可能。稲垣版がそうであるように。



市川版では、屏風の鶴子の恋文にもさほど触れず、陽一が誰の子孫かも描かれず、最終的に村で何人死んだという点もえがかれていない。尼子一族の怨念が・・・・。ミステリーの面白さが・・・・。

連続殺人をクジ殺人で、鶴子の深い「愛」、つまり鍾乳洞内をきちんと、そして32人殺しを、さらに尼子一族の怨念を、これらを描くことが必要である。

市川版では美也子の「愛」を、それだけを強く描きすぎている。美也子と里村慎太郎の描き方も稲垣版のが非常いいと感じる。どちらが原作にちかいのかは私は不明だが。

通常は、犯人の心情なり想いが核となる場合が多い。しかし、「八つ墓村」は違う。だが、当然違う場合も市川版はきちんと描いてきた。「犬神」の場合、実行犯は松子婦人だが、その核は佐兵衛翁の「愛」である。だが、この場合は佐兵衛翁の望んだことを実行したので、厳密には比較することはできない。「獄門島」も同様。ただ、側面においては同じかたちである。つまり、尼子一族の怨念を、彼らの望むことを美也子が実行してしまう。


市川監督は過去の作品でも犯人の「愛」を強く描いてきた。けっして原作通りではない部分も作品によっては多い。「手毬唄」もリカが自分で事件について語る場面は原作では一切ない。しかし、あれはあれで市川版独自のものとして非常に魅力のある作品に仕上がっている。
そして、犯人の「愛」だけではない、リカの「愛」、磯川警部の「愛」をうまく描いている。謎を解くのは金田一だが、リカの話であると同時に磯川警部の話でもある。それを思うと、この「八つ墓村」も複数の「愛」をうまく描いた方がよかったのではと感じる。

市川監督はある部分を弱めたり、全く描かないことで、他の部分を強く表現する手法は今まで使っており、これに関する記事も記述してきたが、いままではそれによりミステリー的にも、ストーリー的にも独自のものとして、作品に深みがでていた。しかし、「八つ墓村」は描く側面が多い作品であり、それらに全く触れないことは全体的な話のトーンが落ちてしまう。市川監督が核とした部分、ひとつだけを強く描くことによって作品全体がミステリーとして弱くなる。
やはり側面を描いている稲垣版を見てしまうと・・・・。
キャスト的にも市川5作品と比べると魅力はない。テレビドラマでも十分のキャストである。それだけにやはり単純にストーリーで、比べてしまう。

たしかに画、カット割りなどはまさしく市川監督の画で好みであるのだが・・・・。

やはり、核とする部分、辰弥の話にしなかったことが、市川版最大不満な点である。


やはり、稲垣版のあとだけに、「女王蜂」とは全く違い、物足りなさを感じ、正直非常にガッカリしたのであった。再度記述するが、これは初めてである。他の映像作品を見て市川版が物足りないと感じたのは。原作どうこうではない。どの作品においても私は原作の詳細は忘れている(最近読み直した手毬唄以外は)。映像作品同士の比較での話である。
しかし、今までは石坂金田一であるという私にとって圧倒的有利な点があることも確かだが・・・。

原作は詳細を覚えていないが、何度もいうが、稲垣版は原作にかなり忠実に描いていると思われれるという想像のもとでの記述である。ストーリー的に非常に物足りない。

市川監督作品に対して批判はしたくないのが心情だが、原作を愛している市川監督らしくないような、内容だと私は感じる・・・・(当然、監督自身が簡素化していることは一番把握しているのだろうが・・・)。
くどいが、美也子の「愛」を慎太郎を含めて、市川版のように画的につよく表現する必要はなく、稲垣版の描き方のが、ストーリー的も面白く、十分であると感じる。その分、他の側面をきちんと描くた方が作品全体として有効であると・・・。なぜ側面を十分に描かなかったのか・・・。美也子の「愛」だけでは(厳密にはそうでないが、そう感じてしまう展開である)、そしてあの最期では・・・。
監督はある意味、他作品と同じスタンスで望んだのかもしれない、市川版独自のスタイルにはめて描こうとしたのかもしれない。しかし・・・・・。


と、ここで原作を思い、考えてみる。本筋と側面?
ミステリーである以上、そして探偵が登場する以上その本筋は謎ときである。しかし、この「八つ墓村」の場合、本筋の謎ときは連続殺人なのか。違う。側面を、重要な側面を描かないからもの足りずに不満に感じるのか。いや、本筋は、本筋の謎は、辰弥の出生の真相ではないか。
私はここまで記述しておきながら本筋を間違えていたような気がする・・・・。
連続殺人は最も重要な側面であった・・・・。




さて、私としては、これから原作を読み直そうと思っている。ほんとは「手毬唄」を読み直し、その後「犬神家」の予定だったのだが、また順番が変わった。まず「八つ墓村」を読み直そうと思う。そして、必要があれば再度、稲垣版、市川版について記事を書こうと思う。
そして、その次ぎに松竹版そして、TVの古谷一行版、厳密にいうと古谷版は2作あるのかな、78年版と91年版、できれば78年版をみたいと思う。そして、稲垣版と比較してみようと今、思っている。

他にも映像作品はあり、フジの鶴太郎版もみたいが(これもみているはずだが)、ただ、ちょっと調べたところだと32人殺しが8人にして描いているようで、これは・・・。そのインパクトという点でけではない。このシーンは要蔵の想いの深さでもあり、最後の村で死んだ人数に関係してくる・・・・。
う~ん、いただけない・・・・。



この「八つ墓村」という作品。非常に奥の深い作品である。横溝作品全般にいえることだが、特に強くそのことを感じる。つまり重要な側面が複数存在し、うまく絡みあっている。
映像作品にする場合、核に置き所を違えることによって複数の描き方ができる。誰の話にするかによって。実際に、金田一耕助が登場しない「八つ墓村」の映像作品もあるようである。

金田一ファンとしてはこれは許せない。一体だれが謎をとくのか。警察で解けるのか。この事件、連続殺人の犯人を解明できるのか、さらには、鶴子の深い、純粋な愛を、辰弥の出生の真相を確証を得て、証明できるのか、そして美也子の想いを、犯人の真の動機を解明できるのか、そして慎太郎の本心を理解出来るのか、亀井陽一の子孫は・・・。ここまで解明しないと「八つ墓村」事件の真の解決にはならない。
そこにはあの風来坊が、一見体裁の悪い、うだつがあがらない感じのあの男の存在は欠かせない。

脱線したが、要は、核をどこにおこうが、重要な側面をはぶくと全体的な完成度が落ちるのである。


さすが横溝正史と、うなるばかりである・・・。
そして、最後に今一度、辰弥を主役におかなくてもかまわないが、私はやはり鶴子の深き「愛」、“竜のあぎと”に秘めれれたその純粋な「愛」を、つまり辰弥の出生の真相を、その名前の由来を描かなくてはならない作品であると感じる。なぜなれそれが核であり、本筋であるから・・・・。


画像


画像


画像




※本記事は、原作をわすれている私が、映像作品(フジの稲垣版と東宝・市川版)をみて、そこから思ったことを記述しています。原作との相違点があると思いますが、あくまでも映像作品が元になっています。


※お詫び

 上記の記事で市川版では描いていない側面が多いと指摘しました。その点はそうなのですが、その側面の詳細においては全てが原作にあるのではありませんでした。
“辰也の名の由来”
“母の地図により辰也が最後に助かる点”
“亀井陽一が誰の子孫か”
“美也子を含め最終的に死んだ人数”
これらは稲垣版による原作にない独自の設定でした。しかるに市川版で描かれなくても当然な部分でありました。ここを描かないのは不満であるとした私の意見は間違いでありました。

ただ、一ついえるのは、稲垣版をみたあと、市川版が物足りなく感じる点、これだけは変わりません。それだけ稲垣版の出来がいい、これは間違いなくいえる点です。


※上記は全て、原作ではなく、稲垣版を元に比較した内容です。



※原作を読んだ後、最新の感想は下記に記述してあります
「八つ墓村」 本筋と側面 ~竜のあぎとに秘めれれた愛・・・、辰弥出生の真相・・・。
http://toridestory.at.webry.info/200704/article_12.html

この記事へのトラックバック