「八つ墓村」 辰也出生の真相 その確信とは・・・  (追記)

「八つ墓村」について、私的に気になる点が生じた。

それは、フジTV、稲垣版の「八つ墓村」の内容についてである。
ある原作的に重要な人物が存在しない点。
しかるに、何故、私はあそこまであの映像にあれほど惹かれたのか。
美也子の最期が、厳密にいうと金田一と対峙するシーンが描かれている点で評価する方も多い。しかし、それ以上に・・・・。

その点について語ってみる。



原作で、鶴子が身ごもった子が果たして陽一の子か、田治見要蔵の子かは不明である。
しかし、生まれてきた子、つまり辰也が陽一の子であると鶴子は当然堅く信じていたであろう。いや、確信があったのであろう。そして、原作において、辰也はその顔が若かりし頃の、そう鶴子と互いに愛し合っていた頃の亀井陽一と瓜二つであると屏風に隠してあった写真でその事実を知る。
田治見家の者、兄久弥の発した言葉からも、そして姉の春代、彼女の辰也に対する感情からも明らかで、村の者も辰也が村に帰ってきた姿、顔をみて誰の子かを確信したであろう。


原作では、以前記事でも記述したように、原作には辰也をとりまく複数の愛が存在する。


>私は“鶴子の深き愛”これが核であり、“辰弥の出生の真相、、その名前の由来”その謎ときが本筋であると記述した。これはあくまでも稲垣版の場合であった。これはこれで非常に好きな描き方で良いと思う。非常に惹かれた内容であった。
しかし、原作は違った。核が「愛」であることは変わらない。しかし、それは複数の「愛」。上記の通り、鶴子の、典子の、春代の、そして・・・・。
ただ鶴子の深き「愛」、これは当然最も重要な部分であり、それが本筋の謎である辰弥の出生の真相につながるのである。
ただ、厳密にいうと謎ではあるが、確証がないので謎ではあるのだが、村人にとってはそうでない部分がある。辰弥にしてもまるっきりの闇の中という謎ではない。鶴子と陽一の仲は村人は知っており、その噂を聞いた要蔵が鶴子を責め、辰弥に傷をおわせる。辰弥は村にはいる前にその噂、過去に出来事について知らされる。そして、陽一を知る村人には辰弥が村にはいった時点で、確証をえたと堂々の確信を得る。ただ、辰弥の視点がかかれている本作は、それが終盤まで辰弥自身には謎となる部分である。

要はこの「八つ墓村」、原作を読み直して私は、その本筋は先述したとおり、田治見家の秘密、そして鍾乳洞の謎。さらには自分の出生の謎、この謎ときが本筋であり、辰弥をとりまく、彼を思う人達の「愛」、そこが核であると感じるし、実際に辰弥はその複数の「愛」に助けられる。そして、もっとも中心とすべきはやはり鶴子の「愛」だと感じる。その「愛」が最後に辰弥に全ての幸せを与える。辰弥が最後に黄金を手にする点、最後に長英から知らされる驚愕の事実とある夜の出来事の真相、典子と結ばれる点、そしてその場所、そして繰り返される細胞の歴史、その執拗。つまりは辰也の出生の真相の確信。やはり“竜のあぎと”に秘められた深い愛が根源にあるように感じる・・・・。


過去に私は上記のように記述している。

「八つ墓村」 本筋と側面 ~竜のあぎとに秘められた愛・・・、辰弥出生の真相・・・。(訂正追記)
 (http://toridestory.at.webry.info/200704/article_12.html

何が本筋かという点は、その後の記事で訂正しており、過去記事の引用なのでご理解いただきたい。
そう、この記述での『竜のあぎとに秘められた鶴子の深き愛』が核であると感じるとの記述は今でもその通りである。

原作で、それは、鶴子の哀しき深い心情いや愛情は、屏風の中に張り込めた亀井陽一への恋文で明らかにされる。

~さるにつけても想い出され候は、竜のあぎとのほとりにて、はじめてあつきおん情を賜わりしころのこと。



そして原作において、辰也は若かりし頃の陽一と瓜二つであるとの事実よりも強烈に、自分が鶴子と誰の子か、自分の出生の真相について、強く確信する事実がある。

そう、過去記事の引用分にある、

>>繰り返される細胞の歴史、その執拗。

そう、さらに原作にはこうある、

>私はある確信をもっていたのだ。私の生命の最初のいぶきが、母の胎内に芽生えたのは、あの洞窟にちがいないと。同じことが典子の胎内におこったのである。たった一度の経験で。・・・・繰り返す細胞の歴史は執拗である。


この部分、これは原作的に非常に重要な部分であり、辰也出生の真相を本人が確信するに決定的な出来事である。
私個人的には、映像作品において、この部分を描くことは非常に重要であると感じる。
つまり、それが、くどいようだが、辰也出生の真相を明らかする点であり、核である鶴子の深き愛につながる。

何が言いたいかお分かりであろう。
里村典子である。

原作を20年ぶりに再読してしまった私にとって、この部分、この記述は非常に重要な一文であった。そして個人的にここははずせない部分であると感じた。
これが核につながる部分であると。
そう、この作品の核である複数存在する「愛」、その中で最も重要な鶴子の深き愛、亀井陽一への愛であり、辰也への愛。

里村里子、彼女の存在はその点において重要であり、さらには彼女の辰也への愛、これも当然原作では重要なものである。彼女の存在が、その愛が辰也を精神的にも肉体的にも救うのである。
つまり彼女を、里村典子をヒロインとして登場させなければ私は、原作を再読してしまった今、納得できないとの思いが強い。
核である愛を、そして鶴子の深き愛も描けないとの思いが・・・・。
(ただ、映像作品の場合、金田一を主役にすえるのが当然のように多い。その場合には展開的に難しい部分も生じるであろう。)
しかし、松竹版にしても、市川版にしても典子をヒロインとして描いてはいない。
(松竹版で典子はいたか?思い出せない・・・)


しかるに・・・・、ここでようやく最初の点に戻る。

フジの稲垣版「八つ墓村」、たしかにいいデキである。
最初私はこの作品をメチャメチャな作品と認識していた。以前、記事にした通りである。
それが、私がよくお邪魔する、これは私なんかより横溝正史の原作を深く理解し、読み込まれているブタネコさんが記事で稲垣版「八つ墓村」はなかなかデキがよいと記事。(http://buta-neko.com/blog/archives/2006/01/post_624.html
で書かれたいたのをきっかけにきちんと見直したのである。そしてそのデキのよさに初めて気がついた次第である。

しかし、この稲垣版「八つ墓村」、里村典子がヒロインではない、それどころか典子自体、存在しない。描かれていないのである。
しかるに、何故原作を再読したあとでも私はあそこまで稲垣版を評価し、気に言っているか。それは里子が存在しない点を別な部分で、そう辰也出生の真相、鶴子の深き愛をより直接的な形で表しているからである。

はっきりと描写してしまう点が好き嫌いの点で意見が分かれるかもしれない。しかし、私は非常に惹かれた。
そう、シャクの関係であろうが、典子が存在しない。繰り返す細胞の歴史の執拗は表現できない。しかし、稲垣版は、辰也自身の確信ではなく、視聴者側に分かりやすく、そして効果的に、母自身の、鶴子自身の確信として、その鶴子の深い愛を直接的に表現したのである。
そして、原作に複数存在する辰也への愛、その中で鶴子の愛を正しく核としたのである。

“竜のあぎとで授かりし子故、辰也と名付ける”。

これが私が非常に惹かれた、そう明確な形での辰也出生の真相の確信、
『竜のあぎとに秘められた、鶴子の深い愛』なのである。



個人的に稲垣版の本は非常に好みであり、うまくまとめた本であると感じる。
一応、金田一をメインで描き、その活躍する部分も十分に描きつつ、多くの側面も省くことなくきちんと描いている。そして美也子と金田一の対峙するシーン、彼女の身体の変化も描き、さらに上記のように典子が不在だが、辰也出生の真相の確信を別の形で描いている。
鶴子の深き愛を直接的に表現し、最後、辰也が鍾乳洞から助かる部分も里子が存在しないから当然であるが、1人で、しかも金田一らにたすけられるのではなく、母からの鍾乳洞内の地図を頼りに、そう母の愛に正しく救われる描き方をし、その核がより強く、明確である。
ただあえていえば、最後、金田一耕助が大金(小判)を辰也から受け取るシーンは個人的には・・・・。


「八つ墓村」は、複数存在する重要な側面を、映像作品独自のさらに奥をついた設定にする部分が他にもある。

尼子一族の怨念、結局は美也子が自分の愛の為にそれを叶えてしまう結果になるのだが、美也子自身が尼子一族に子孫であろうという設定をしたり、やはり尼子の怨念に関する部分で八という数字と殺された人数を深く関連づけたりもする。

これはこれで展開にもよるが効果的である。
ただ、あまり多くを関連づけさせるとくどいというか、逆効果になりうる場合もあるが・・・。

それぞれの映像作品の本、脚本ということになるのだが、やはりそのベース、つまり原作のよさ、凄さに結局はよるのであろう。そして数多く存在する重要な側面とその絡め方が・・・・。

横溝正史はなぜ辰也という名にしたか、それは原作で文章で表現はしていないものの、鶴子の確信をやはりその名にこめたのであろう。稲垣版はそこを直接的に恋文の内容として描いた。そう、繰り返すが、竜のあぎとに秘められた愛をわかりやすく、ストレートに。

この点が私的に里子の存在をなくし、繰り返される細胞の歴史、その執拗をえがかなくとも私的に納得できる部分であるのだろう。
そう、辰也自身での、鶴子自身のでもどちらでもよい、要は辰也出生の真相の確信を描くことが私的に重要であると感じるのである。
そして当然、美也子の思い、動機の崩壊、そして上記した通り、美也子の最期(身体的な変化)を原作通りに描いているからである。

ただ、やはり現実的には、連続ものでない限り、そしてメインが辰也でない限り、典子を深く絡め、原作通りに描くことはシャク的に難しいであろう。そこを深く描き、他の側面を省くとそれは作品として弱くなってしまい、「八つ墓村」の魅力が薄れてしまう。
原作を憶えている人にとってはバランスどりが非常に難しい作品であろう。

本来、私は記事でも何度も記述しているように、横溝先生には大変失礼ながら、“市川崑の金田一耕助”が、それも石坂金田一耕助が原作以上に好きななのである。
市川+石坂版は原作を再読した上でも、その核の置き所、独自な部分の展開なども非常に好きで、私の中心には市川版が常にあるのだが、それ以外ではやはり、当然ながら原作が一番になる。
やはり、今の段階ではその点から、映像作品としての「八つ墓村」、私の中では、いや、私がみた中では、TVドラマではあるが、稲垣版がそのデキにおいて最高峰であろう・・・・。


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以前、ブタネコさんに製作年代順に「八つ墓村」の映像作品(TV・本編両方)をみるとその製作の仕方、設定の部分で気づく点があり、おもしろいとの旨のご指摘をうけており、実行しようと思っているところだが(当然、後の製作作品はみていないものとして)、非常に思いこみ、思い入れの強い私、原作を再読してしまい、上記の点から違う描き方(よりストレートな)ながら稲垣版がツボにはまっている私には、ブタネコさんには大変申し訳ないが、お約束したとおりの見方はできないのではないかと思ってしまう・・・・・。

ただやはり、近いうちに松竹版、そして古谷版(TV;初見)、そして今一度、市川版と鑑賞しようと思う。









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    Excerpt: ☆☆☆(6点/10点満点中) 1977年日本映画 監督・野村芳太郎 ネタバレあり Weblog: プロフェッサー・オカピーの部屋[別館] racked: 2014-09-14 20:45