映画への想い・・・。   賛同と反感。  ~これが私の映画への熱い、深い想い・・・。

私がよくお邪魔する用心棒さんのブログ「良い映画を褒める会」での記事、

「『理想の観客とは…。』映画を観るために不可欠な基礎的観察能力を養うには何が必要だろうか?

を拝読させていただき、全てではないが多くの点で非常に共感し、賛同の想いがした。



まず映画に対して、

吹き替えへの想い、異論

>いくら声優ががんばったところで、オリジナルの俳優の演技には遠く及ばない

>オリジナル俳優の演技を超えることなどありえない声優

>映画での良いシーンほど、吹き替えによる口パクの悪影響が出てしまう

などなど、まさに同感です。
いくら優秀な声優が、俳優がアテようとも、演じた役者には、それがアテでもその役者がアテるのと声優がアテるのではやはり違うと私も思います。
ただ、これは用心棒さん記事にもコメント内で書かせてもたったのだが、作品によって、具体名をあげると、刑事コロンボとイーストウッドに関しては小池朝男と山田康男のアテに愛着があるのは事実なんですが。

これは希な例外で、基本は映画はたとえその言語が理解できずとも、字幕でしか私はみませんし、僭越ながら言わせていただければ、他の方もそうすることをお勧めする次第です。

つまり映画として、映像職人がその想いと技をこめてつくった映像、ここで私がいう映像とはセリフや音楽も含みますが、当然、完成された映像であるということです。ですから吹き替え版とはもうその監督の作品ではないのです。
ですから、私は吹き替えはオジナルをバカにしたもので、見るべきでないと用心棒さん同様想います。


また、映画をみるべき場所という点で、私も今はDVDを家でみる機会のが多いのですが、やはり映画はハコで、大きなスクリーンで、劇場の音響でみるのが一番であり、そうあるべきだと私も思います。
この点も用心棒さんに同感です。

また、さらに強く共感したのは、

>観客の問題も大きい。なんでも台詞にならないと理解できない、TVドラマ世代の想像力の欠落は映画にも影響が出ている。映像の意味を理解しない・・・・表現方法としての対処と弊害は製作側にももちろんありますが、受け手の責任も大きい。

この点。
厳密にいうとこれについては全面的に共感、賛同というわけでは私はないのだが、画をセリフで説明してしまう愚かさ、制作側の責任という点には正にその通りで、これはプロとして映像職人としてやってはならないことだと強く感じます。


そして、あくまでもその書かれた記事のタイトル通り、『理想の観客とは・・・。』ということを考えた場合に、用心棒さんの主張というか、その想いは正にその通りだと、共感するばかりです。

>いくらこれら六つの芸術に精通しているからといっても、そういう人が完全な映画ファンになるかというとそうでもな い。映画を愛しているか、これがもっとも重要なのです。テクニカルな部分のみを理解しているから、完璧なわけで はない。ただ分析するのは観察者の視点であって、愛好者のそれではないかもしれません。

>冷静に分析しつつも、熱く一本の映画にのめり込んでいけるファンこそが理想的なのではないでしょうか


芸術という点は目をつむって、あとはまさにおっしゃる通りで、そうあるべきだと私も強く想うのです。
これらはよくぞ書いてくれましたと正に同感です。

ただ、既にお気づきの方もいるように、基本、私は『映画は娯楽』という強い想いがあり、その点から、鑑賞に対する想いも用心棒さんとは、そこは想いが異なるんですね。
これは過去に、何度となくお邪魔して、反論というか議論とうか、私の想いをコメントとして主張させたいただいてきました。

今回、この記事へのコメントは、本来は『理想の観客』という点で、また映画について、非常に共感できる内容ですということを言いたくてコメントをいれてのですが、私の悪いクセで、違和感を感じた点について、自身の想いを長々と記述し、最後に共感できますとしたもので、用心棒さんには結局反論になってしまい、『こいつ、またか』と、うんざりとイヤな想いをされたことかもしれません・・・・。

今回は、クドくなりますので、コメントではなく、記事としてまず、その共感する想いを改めて書かせていただきました。


そして、先日私の書いた記事

映画とは、光と影、職人の技の結晶。そして映画とは、娯楽、大衆の娯楽である。 (再追記)」

にコメントをいただいた「時代の情景」のトム(Tom5k)さん、この用心棒さんの記事にもコメントを入れられており、そのやりとりを拝読して、私はまた違和感というかな、自身の想いとの違うこと感じました。
その点を、今回はコメントを入れずに、先述の通り、記事として自身の想いを書いてみます。

ただ、ひとつ誤解なきよう最初に申し上げておく。
当然、想いが別で、反論ということになるが、それはあくまでも私の映画への想いであって、他の方のの、用心棒さんや、トム(Tom5k)さんの映画に対する想いを否定するものではない。
これは自身で何度も記述しているとおり、映画に対する想いというのは人それぞれある。
ただ、自身の想いとして記述するために、「~である。」や「~でなくてはならない。」などの断定的な、そして他の方の意見を否定するような表記をするかもしれないし、過去の記事でそうしてきたが、それは自身の熱い想いを表現するためであって、あくまで私の想いであり、決して他の方の想いが間違いであると、否定するものではないことを自身の想いを記述する前に述べておきます。



ここからが、タイトルの通り、反感というか違和感を感じた、部分への私の想いです。

まず、コメントも含め、読ませていただいて、当然共感できる部分もありますが、過去にも実際にそうでありましたが、やはり好みとうかその点で違いがあり、当たり前ながら意見が、想いが異なる点もあるということ。

まず、東映のヤクザ映画に対してあまりお好きでない様ですが、またその鑑賞して者への影響にも意見されてますが、私は非常に大好きなんです。
健さんの『昭和残侠伝』、『日本侠客伝』、藤純子の『緋牡丹博徒』、引退作の『関東緋桜一家』等の任侠ものも、『仁義なき・・』等の実録路線も大好きです。過去の記事でも記述しました。

 「映画に夢中だった頃、それは遠い日々・・・

そして、たしかに任侠路線はヤクザとうものを美化している感はありますが、『仁義なき』などはけっしてカッコよくはないです。私はあれは深作群像劇の傑作だと信じて疑わないんですが、あのドロドロとした醜さが非常にいいんです。たしかに、文太は、彼演じる広能は素直にカッコいいと想います。ただ、あれを見たからといって人生を過ってしまった人への影響など私は考える必要がないと想います。私の概念では、映画とはつくりもの。そして映画とは娯楽。
この点は小説などでもそうです。
山崎豊子の傑作『白い巨塔』。
原作は正編と続編の2部にわかれています。当初、山崎は正編のみで続編を書く意志はありませんでした。そうあの財前が医療裁判で無実になって終わる。それで完結でした。
ところが“作者はいかにフィクションとはいえ、その内容に社会的責任をおうべきだ”との反響がおおきくやむなく続編を書いた。私にいわせるとナンセンス。
所詮小説。しかも小説でありながらあれは大学医学部の実情にせまった内容で実際の医療過誤裁判も現実的な内容であったのです。

とにかく、私はあくまでのつくりものとして楽しむことができない人は、ハナから相手にはできないのです。
ヤクザ映画をみて、劇場からその気分で出てくるのはいい。しかし、実際に人生を踏み外すようなバカまで面倒みきれませんし、そのような人は映画を見る資格がない。
そのような輩の為に、表現が制限されることはあってはならない。

市川監督の言葉で、
“映画にならない題材はないと思っています・・・”
市川監督自身、かつて、石原慎太郎原作の映画『処刑の部屋』について、キネマ旬報誌上での対談で、朝日新聞の映画貴社である井沢淳氏が映画の反社会性を批判し、映画としての表現、描写の自由を主張する市川混と大論争になった過去があります。睡眠薬を飲ませてのレイプシーンが問題となり、映倫の改組にまで発展し て、「キネマ旬報」誌上で市川崑監督と映画評論家の井沢淳との大論争に至ったアレです。
市川監督は、表現の自由を主張し、ゆずらなかった・・・。
これも実にナンセンスである。
現実とつくりものの区別のつかないバカが騒いだだけ。

あくまで『映画は娯楽』で、楽しんでみるもの。その上映時間中、夢の中へつれっていってくれる楽しいものなのです。それは喜劇でも悲劇でも、もちろんヤクザ映画でもそうです。自身をその世界へ連れっていってくれ、夢をみせてくれるものであると私は想うのです。
しかるになりきってしまうことは正にその夢に入り込んだ証しで、つくり手にとっても最高の状態でいえると想います。ただ、夢はさめるものです。
その現実と夢の区別ができない人間、最近は実際にそのような輩がいますが、彼らは人間として問題があるし、当然映画を見る資格はないのです。


ここで私は映画とは、基本はくどいようですが、『映画は娯楽』であると想っています。
ただ、私の中で、違うとの想いが成立する場合があります。
それは映画のつくり手にとって、その場合の映画です。この場合は、つくり手にとっては、つまり監督にとっては映画は娯楽以外のものであるでしょう。
当然、中にには“私は、まさに娯楽をつくっているんだ”という方もいるでしょう。
そして、“本を、それを表現するために映像にしているだと、つまりあくまでも映画をつくっているのだ”とう方もいるでしょう。もちろんそれ以外の想いをそれぞれにもっているでしょう。
つくり手にとっての想いというものは私はあると想います。ただ、一つ、違和感を覚えるのは、つくり手側が“私は画芸術をつくっているのだ”という方がいればそれは傲慢であり、違和感を感じずにはいられません。

そこに映像職人としてをの技とこだわりをこめてつくり、その完成した映像が芸術の域にあることは私も認めます。しかし、やはりそれは芸術ではないんですね。

それは、ここでいう私の映画は、つくりもので、ストーリーがあり、一般公開するものをいいますが、
一般公開し、興業収入をえることを定められている以上、それは決して芸術ではないのです。
そして、均一の料金を払えば誰でも鑑賞できる事実、芸術性の強い作品だろうが、アクションだろうが。
そう、やはり映画とは鑑賞する側にとっては、けっして芸術ではない、娯楽です。


ちょっと脱線しましたが、要はつくり手側にとっては『映画は娯楽』以外の概念もありですが、鑑賞する側、私を含む映画をみる一般大衆側にとってはあくまで『映画は娯楽』であると私は想うのです。

そしてもう一点、私が強く想うことは、映画は製作段階ではつくり手の、監督のものです。
これは監督を指揮官とする製作者全員。映画はよくそのスタッフを監督の名前で何々組といいます。
そう、まさにその監督のものです。
が、一般公開された時点で映画は監督のものであると同時に鑑賞者のものにもなります。

その人がいつ、どこで、誰とみるかによって映画は想いがかわります。
これは純粋な映像だけの想いではなくなりますが、当然、そのシュチュエーションが、その感性は間接的ながらも絶対的に影響をあたえ、その行為がその見た映画の印象にプラスアルファされ人の記憶にとどまります。以前、用心棒さんもおっしゃていた“五感で楽しむ”とうことにもつながる点です。
つまり、鑑賞した人それぞれにその映画に対する想いが生じ、それぞれの方のものにも映画はなるのです。

つくり手はそこを理解しいないといけません。
つまり映画の解釈の正解は監督がこめた想いです。が、鑑賞した方が100パーセントその監督の想いを必ず、全員が感じ取るかというと決してそうではない。

つまりつくり手には、その完成された映像への自信、プライド、その傲慢さとそしてある種のあきらめと開き直りが必要なのです。

“とにかく想いをこめてつくりました。あとは見る方にあずけます。”

映画とはあくまで鑑賞する人の感性でうけとめるしかない。私はそう想います。実際に私はそうですし、それしか私はできませんし、それ以上のことはする必要がないと私は想います。詳しくは後述しるとして話を戻しますが、そうなるとそれぞれ感性が違うわけでやはりその想いは詳細な部分で違うことも当然生まれます。
つくり手はそのことを理解していなければなりません。
私はその人の感性でうけとるしかないと想っているので、つくり手の想いを感じとる努力など鑑賞側する必要は当然ないと想っています。私は、つくり手の想いの為に、映画をみるのではない。あくまでも娯楽として、その映画を楽しむために鑑賞するのです。もちろん、そのつくり手の想いを読み取ることができる人、またそうすることが映画をみる上での楽しみである方は、そうすればいい。そしてそれがより映画を楽しくし、映画より理解できることは間違いなくたしかである。それは実に素晴らしいことで、まさに『理想の観客』に確実に近いと想います。

しかし、私だけなのかなぁ~、とにかく、この世ですくなくとも1人は、そうすることで、つくり手のメッセージを読み取ろうと努力することで映画を楽しめなくなると想う人間もいるのです。
わたしはある友人とよく映画を一緒に鑑賞しにいきますが、
『つくり手の意図をきちんと読み取ろうぜ』と話ながら、その想いで鑑賞することなど全くありません。
ただ、おもしろそうだから見にいくのです。楽しむために見に行くのです。

つまり、鑑賞する側にその想いを、メッセージを伝えるのは、つくり手側がすればいいのです。鑑賞側が読み取る努力などすることはない。それは製作側を甘やかすことになると私は思います。
鑑賞する人の感性を揺さぶる、震わす、くいこんでくる、そしてその想いを伝える映像をプロとして、映像職人として、つくるべきなんです。
小津が畳への照明反射をきらい、極力畳を映さない。それは鑑賞側へ画への違和感を、一切の違和感を感じさせずに映像へはいりこませる為のこだわりと配慮です。
そう、つくり手であるプロ、映像職人はそこまでこだわり、技を込めて映像をつくるべきなんです。実際に現在のつくり手のレベルはそうでないかもしれないという現実があるでしょう。
実際に画を説明してしまうような、観客を信用しない、観客のイマジネーションを奪う、自身の映像に自信とプライドをもたない、映像の完成度よりも安易に想いを伝えることを選択する愚かなプロとしてあるまじき行為。
つくり手の質の劣化はあってはないないことで、プロは素人に頼らず、自身が過去も含め多くの優秀な作品を
みて勉強し、その技術を磨きつづけるべきである。
私にいわせると鑑賞する側に余計なことをさせるなと、ただ映画を楽しませろとの想いが非常に強くあります。
『理想の観客』ならぬ、『理想のつくり手』それがあるべきで、これは見る側とは全くの別問題で、そうでなければならないと私は強く想います。
私は映画を鑑賞するからにはその時間を楽しみたいという想いがあります。その為に、できるだけ愛情をもって接します。それにはつくり手の質が最低限あることが前提です。ですから場合によっては映画を愛すればこそ、つきはなすことも必要で、それが映画への愛であると信じます。互いに立場を越えて世話をやく必要は全くないと私は想うのです。
そして、くりかえしますが、確実に想いが伝わらない可能性があるからと、観客を製作側も心配してはいけないのです。
つまり、想いを伝えることを優先し、映像の完成度をおとすような行為は、プロとして、映像職人としては決してやってはいけないことであると想うのです。そのような人は、映画をつくる資格がないと私は想います。
そう、想いは伝わるであろうという映像への自信、プライド、傲慢さそして同時にこれが理解できない客は客がわるいと切り捨てるあきらめとひらきなおりが必要なのです。
映画のつくり手は、その質を決しておとしてはいけない。これが理解できるかと、傲慢であるべきなのです。
私はよく、“観客の質がさがったから、作品の質が落ちた”とか、“観客も映画の為に、その質を上げる必要がある”と言われる方がかなりいっらしゃますが、私は違和感を、抵抗を感じます。
見る側にそんな世話を焼かすなと、観客は映画を見るのに努力なんか必要ないのです。つくり手は常に自身でプロとして、その質をたもてつべきだと、映像職人として、こだわりと技を画につぎ込めと、私は思うのです。つくり手が質を落とさなければ、観客も質の低い映画を目にすることはないのです。
もし、つくり手の質が落ち続けるのであれば、そんな映画はなくなってしまっていいと思っています。
私は過去の作品を繰り返し鑑賞するだけです・・・・。


私は、これは通な映画の見方ができないひがみかもしれませんが、頭の悪い私はむづかしいことができません。
私は用心棒さんとトム(Tom5k)さん、あっ、ゴメンなさい、豆酢さんもそうみたいです。彼らのコメントのやりとりを拝読して、まず感じたことは、
“なぜ映画を、映画をみることをこう難しくするのだろう”
と、率直に疑問に想いました。

まあ、芸術性の高い作品をほとんどみない、ヤクザ映画好きな奴の、質の低い映画しか見ない奴のヒガミかもしれません・・・・。

繰り返しますが、出来る方は、そうすればいいです、いや、そうするべきなんです。
用心棒さんもおっしゃるとおり、意識して深く理解することでより作品を楽しめると思います。
それは明らかにそうです。

ただ、私はできない・・・。

トム(Tom5k)さんのコメントを引用させていただくと、

>われわれ見る側はその映像における文章を読み取り、解釈し、そしてその行間までを理解し、沸きあがってくる心象を生活に結び付けていかなくてはならないのではないでしょうか?

私はこのようなことを考えて、意識して映画を見たことはないし、このようなことを意識すると私は映画を楽しめなくなりす。
私は別に製作者の為に鑑賞するわけではない。自信が楽しみたい為に鑑賞するのです。
頭の悪い私は、つくり手の想いを、行間を理解する努力などしなければならいと想うと、負担になり、重荷になり、映画を真から楽しめなくなります。
これはブログもそうなんですが、最初に書き始めたときは違いましたが、いくつか映画記事をかいていくうちに、映画をたのしむのではなく、記事の為に見ている自分に気づき、映画をみることに抵抗が芽生えたんですね。みるからには感想を書かなければと思うと重荷に私の中でなったんです。
食べ物も同じです。私はブログで飲食店も紹介してますが、書くからにはきちんと紹介しようとそちらにばかり気をつかいだすと、ブログの為に食べに行っていて、肝心の食事を楽しむという行為ができなくなってしまう。
映画もそうです、私には・・・・・。


私は鑑賞する側は、映画関係者でない限り、映画をみて勉強するとか、みる為の努力などする必要はないと想っています。すべてはつくり手が、プロが気をつかい、それだけの映像をつくり、鑑賞側に余計な気をつかわせてはいけないと想っています。勉強を意識してするのはプロであるつくり手側だけでいいと。

鑑賞する側は、映画を楽しめばいいと想うのです。
ただ、最低限の常識として、その上映時間当然、集中してみてほしい。それだけでいいんです。
そして、何かを感じればいい。
セリフ一つでもいい、なにかのしぐさでもいい。何かを感じればいいんです。

そして、できればこれは用心棒さんもいっておられましたが、できれば映画を何回もみてほしい。
好きな映画なら、もう一度みたいはずです。それは劇場でなくてもいい。DVDになってからでもいい。
何回か、見て下さい。

つまり、普通に上記の友人との件も正にそうですが、楽しむ為に見に行ったときに、これもクドいですが出来る方はやればいいんですよ、ただ私などは、一回見に行くことで、そのう詳細にまで深く入り込んでみることは完全にできないし、またその理解しようと努力することは負担であり、楽しめなくなるのです。
あくまでも自身の感性で映像をとらえればいいのです。それ以上する必要はないと想っています。
そう、映画ファン全員がそうするべきだということには私は違和感を抵抗を感じずにはいられません。

ただ、一回で完全にその作品を見きれる人は、理解しきってしまう人はいいですが、私もそうですが、そうでない方もいらっしゃると思います。
なかなか一度では、その詳細な部分まで、内面的な心理はもちろんですが、技法やつくり手の意図するところなど全て、画的な部分でも、その表面的な部分でもなかなか細部までは一回では気がつかないものです。

例えば、よく例にあげますが、黒澤の『椿三十郎』、あのラスト。
普通にみたのでは、あの居合いの弧刀影裡流を参考した殺陣、左手の逆手で抜き、右手を添えるあの殺陣にはなかなか気がつかないものです。
あれは剣の達人である室戸半兵衛に勝つために、奴より一瞬でもはやく抜くために三十郎がとった苦肉の、必殺の技なんです。
『ダーティー・ハリー』でもそうです。
前半部、ハリーが銀行強盗をひとりで捕まえるシーン。
黒人がショットガンに手をのばそうとするとハリーは44の銃口をむけます。もうすでに何発も撃ったあと。弾丸は残ってないかもしれない。そして強盗が結局ガンに手を伸ばすのをやめ、銃口をおろしたハリーに言う、
“どうせ、ハッタリだろう”
するとハリーは再び銃口をむけ引き金をひく。案の定弾丸はでない。
このシーン、私はこれ最初はハリーはクソ度胸があるな~と、もう6発撃ってしまっていたのにさすがハリーだと、そのように理解していた。
しかし、ある本かなにかであれはハリーは5発しか撃っていないとの記事をよんだ。そしてすぐに見直した。
弾丸数を数えるとたしかに5発しかうっていない。あと1発残っている。画をよくみると44のシリンダーが2回回っている。銃に詳しい方ならすぐにお気づきだろうが、ハリーは銃口をむけてまずシングルアクションで撃鉄をおこし、シンダーをまわしている。そして指で撃鉄をおさえて、しずかに引き金をひき、撃鉄をもどす。そしてダブルアクションでもう一度引き金を引き、2度目のシリンダーを回転させた。すると撃鉄は1発目に撃った空薬莢にあたり空撃ちとなるのです。そう、あの抜け目のないハリーがそんなハッタリをするわけなく、それがラストのシーンへの布石にもなっている。私はハリーのキャラ的にも、ストーリー的にも映画を理解していなかったんですね・・・。


そう、だから好きな映画は、何回も見て下さい。
そして、何度もみて、自身で気がつけばいいし、または他の評論、他の方の感想、またはパンフレットなどからえて情報でもいい、新たな発見があれば見て、確認して下さい。

それは強制とかではなく、好きな映画ならみたいはずです。そしてそれも難しく考える必要なないんです。
また、楽しめばいいんです。そうすることで、何度もみることで自身の中での映画の楽しみ方をみつければいいんです。そしてそのように回数をみることが、そうすることで私は自然と、いやでも、映画への理解がましていき、映画を楽しみながら、より楽しんでいることになっていると思います。

結局は、最終的には用心棒さん達がおっしゃる『理想の観客』になることを私も望んでいるのかもしれない。
いや、そうでしょう。
しかし、私はそれは意識しないくていいと思っているんです。
ただ、集中して、映画を負担なく、重荷を感じることなく、楽しんで何かひとつでいいから感じればいい。


このニュアンスをそ、それこそ感じて、察してほしかった・・・・・・・・・・・・・・・・・・。。。。。


そして、回数をみてほしい。
そうすることで、その何かが変わっていき、その何かが増えていくと思います。
それでいいんだと私は強く想っています。


映画は娯楽で、楽しむものです。
それ以外の理由で私は映画は見たくないし、そうでなければ愛せません。
それは、喜劇だろうと、悲劇だろうと、アクションだろうと、ヒューマンだろうと同じです。
その上映時間をその映画の世界へ、夢の中へ連れて行ってくれて、楽しませてくれる娯楽です。
そう、連れて行ってもらえばいいんです。そうあるべきだと私は想います。
そして、その夢の中で、何かを感じればそれでいい。
私はそれを、恥ずかしいこととは全く想わない。

もちろん、それ以上出来る方は全てを理解すればいい。

ただ、努力する必要はない。それが楽しめる人はすればいい。
ただ、重荷と感じる人は、難しく考えることはない。
ただ、楽しみ、感じればそれでいい。

私は自信の感性でしか映画を見れないし、楽しむために見る以上、それ以上のことは自身ではする必要はないとおもっています。
自身の感性の中で、受け止めればいい。実際これは努力しても自身の感性以上のもの真にはえられないはずです。
ただ、それを楽しむことを繰り返すことによって、感性は磨かれ、感じるものが変わり、感じるものが増えてくるはずです。


私は以前にも記事で、最低なにかを感じればいいと、繰り返してきました。
そして、それ以上は、あえて記述しませんでした。

上記でも触れたとおり、私がいう“感じる”とうことは、その中に、映像への理解、つまり感じることによって、“おもしろかった”“つまらなかった”という感想が生まれます。
そして感じることによって、それは映像の行間を読むこと、自身の映像からのイマジネーションをふくらますこと、はたまた、映像との対話までもが可能になってくる可能性があるのです。それを含みます。
それが感じることです。

やはり私も結局は『究極の観客』になることをのぞんでいるのでしょう。しかし、それは意識しなくていい。意識する必要はないんです。感じればいいです。集中して、映像をみて、映画を見る。そして数を見る。
何かを感じる、なにかひとつでもいい、感じる。それが次第に、感じる何かが変わり、そして増えていく。それが映像の読解へとなっていくのです。
そう、全ては感じればいいです。

風景でもそうです。
素晴らしい風景を目にする。何かを感じる。自然が訴えてくるその迫力と美しさ、その他。それはつくりものよりも強烈な何かかもしれない。そして感じてから、何かをおこせばいい。初めから感じてやるぞとの意識はいらない。
これは写真を撮る目的でいっていてもそうです。それは劇場に映画を見に行っている段階です。ただ、風景と映画ではそのスパンが違う。映画は2時間。風景は一瞬です。映画は席につく。風景は構図とアングルを決める。そして一瞬で感じ、“これだ”っと思い、そのあとシャッターをきる。そう、自然との対話がはじまるのです。
まず、感じることです。

映画も意識してなにかするのは鑑賞が終わったあとでいい。
初めから何かを読み取ろうなどと意識していくと、私は負担と共に、素直に画がみれなくなり、そして映画を楽しめなくなる。上記の通り、ブログの記事を書くためになどと意識したりすると・・・・。
これは様々な情報も同じで、初見の場合、私は極力その映画に関する予備知識を得ないようにしていいます。
新鮮に、そして素直な目で鑑賞できなくなり、素直に感じることができなくなるからです。

これは2度目からは違ってきます。
二度、三度みることはより詳細な部分がみえてきます。内容もしっています。その時には様々な情報が役にたち、細部を楽しむことに、新しい発見に役立ちます・・・。

とにかく、数をみて、感じることです。
それを繰り返していけば、映画を難しく考えることなく、楽しみながら、映像の行間を感じ取れることもできるでしょうし、その構図の意味や、この効果をねらったのかなどつくり手の意図するところを努力することなく、感じ取ることができるようになるかもしれません。それが100パー製作者の想いでは決してないでしょう、しかし、そうなるはずです。
そして、中にはくりかえしますが、、“おもしろかった”“つまらなかった”だけの人がいるかもしれない。それはそれでいい。ある意味それは究極の感想であるかもしれない・・・。
映画とはそうしていけばいい・・・・、それでいい・・・・。
私はかたくそう信じています。

ある方がある作品をみる、その人はその映画を次ぎのように感じる、
“これは芸術だ”
それはそれでいいんです。
その人にはその映画は芸術です。

故淀川長治氏は「映画友の会」などで、ヴィスコンティ映画を絶賛する時に、「映画は美術品なんです」と評されていた。それはそれでいいんです。(私的に芸術よりも違和感と抵抗がないように感じる)

ただ、映画というもの全てが、全体が、クドイですがけっして芸術などではないのです。



まずは第一に楽しむことです。
誰が見てもいい映画、お金さえ払えばどんな人でも楽しめることができる映画。
映画とはつくりもので、その上映中、夢の中へ連れて行ってくれる。
あくまでも夢です。
その夢を楽しんで下さい。そして目を覚ました時に何かを感じて下さい。

私は頭が悪いので、なんていうでしょう、一部の要は通な方はいいんでしょうが、私のような映画にさほど詳しくない、アクションとミステリーばかり見ているただの映画好きにとっては、映画を難しものにしたくないのです。
意識をもって、映像の奥を読み取るとか、観客も勉強し質を上げる必要があるとか、映画をにることに負担と抵抗を感じてしまうんですね。
“なぜそのように映画をみることをむずかしくしてしまうのか”と。
彼らには難しくないのでしょう、しかし私には難しい・・・。
そしてそのようなことを鑑賞する者全員に望むとこは非常に違和感と抵抗を感じずにはいられないのです。
映画とは、誰がみてもいいもの。
そして、映画とは楽しむもので、感じればいいもの。あくまでもその映像から感じることが、自身の感性で受け止め、感じればいい、それしかできないのです。

それが映画。
映画とは誰がみてもいい、だれもが楽しむことが出来る娯楽。
そう映画とは娯楽、大衆の娯楽なんです・・・・・。









最後に、これは私の映画に対する想い、理想というか、こうあるべきであるという願いといってもいいが、実際に私が感じている、そして実行している想いでもあります。
もちろん、他の方はそれぞれの想いでいい。
私のこの想いに多いに、違和感を感じ、反感をもってもらってかまわない。

しかし、これが私の映画への熱い想い、そしてこれからもこうすることしかしない、いや、できない、他にはしようとは想わない映画への想いです。


用心棒さんやトム(Tom5k)さん達かれすれば違和感と反感ばかりでしょう。

やはり根本的な映画に対する概念が違うので、そして互いにその想いは深く重いので、これはいくら議論しても平行線でしょう。
ただ、互いの映画への想いのなかで、部分的には共感するもののあるのは事実です。
そう、根本の概念は違えど、好みのジャンルが合わなくとも映画が好きで、愛する想いは共通。
その違う意見をきくとこは決して無駄では、マイナスではないはずです。
私はそのように想います・・・・。









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