“映画は、所詮、光と影。”  ~市川崑監督を偲ぶ・・・ (つづき)

『“映画は、所詮、光と影。”  ~市川崑監督を偲ぶ・・・。

この記事の続きです。




(つづき)


故淀川長治さんは「映画友の会」などで、ヴィスコンティ映画を絶賛する時に、「映画は美術品なんです」とよく口されていたが、かつて「映画評論」誌上で小説家長部日出雄氏は、市川崑を「テクニシャンの思想」と表現した。
まさに的確な表現である。


1960年、大映映画「おとおと」で、市川監督は、彼らしく職人としてのこだわり、そして斬新さをおおいに発揮し、作品を撮っている。

「銀残し」という特殊な現像処理で、カラーでありながら、セピアの様な色調で、大正の時代感覚を表現した作品。
市川芸術の極致と一般に表されている。

銀残し(ぎんのこし)は、フィルムや印画紙での現像手法の一つ。本来の銀を取り除く処理をあえて省く事によって、フィルムや印画紙に銀を残すものである。一般的に映画の現像で行われるもののことを言うが、写真のカラープリントでも同様の作業が可能である。
日本で生まれた技法で、この「おとうと」で市川監督によって初めて実用化された。
大映のカメラマン、陰影ある斬新な撮影で、稲垣浩、溝口健二や黒澤明らが監督する作品のカメラマンとして世界に知られる宮川一夫氏が完成させた手法で、米映画『セブン』でこの銀残しの手法が使用され、日本に逆輸入される形で現在でも使われている。
最近では、北野武の「座頭市」や「フラガール」でもこの手法が使用された。

画像


画像



映像美を考えた場合に、その画のこだわりは、まさに芸術の域であろうが、私はやはりその言葉には違和感を感じる。そう上記の「東京オリンピック」での記述同様、これはその製作過程とその完成度を芸術の域であるということは否定はしないが、決して私には芸術とは思えない。
そう、これは映像職人としてのこだわりと技なのである。
そう、映画という一般大衆の夢を完成させるための、職人としての・・・。


また、この「おとうと」、
撮影も順調ではなかったという。
主演の岸恵子は一週間くらい撮影が進んだ段階で、市川監督によばれ、
“恵子ちゃん、やめようよ。”といわれたという。
監督の望む画で撮れていなかったのである。
そして、すべて撮り直したと。

岸恵子いわく、
“小津先生と市川監督の前ではまな板の鯉になれる。
つまり、どうにでもしてくれてと。”




時代の変化の中、長年映画を撮り続けてきた市川監督。

市川最初のカラー作品。

1956年大映作品「日本橋」。
市川最初のカラー作品。

“当時、みんな暗中模索でやっていたとおもいますね。
で、僕はとにかく全部灰色にしてほしいと。
芸者の着物だけ、色をだしたいということをいって、机だとかタンスだとか全部灰色に塗った記憶がありますね。これがまた、カメラマンと意図が通じ合わなくてガタガタしたんですよね。”

画像




また、当時映画会社はかなり無理な要求を平気でしてきたという。

名作「ビルマの竪琴」、
この作品、撮影が遅れビルマロケが残っているにもかかわらず、日活は早く公開しろとせまった。
川なら多摩川で撮れとか、築地本願寺がビルマの建物ににているので何とかならないかなどと、ナンセンスな要求との攻防があったそうである。





市川監督はある対談で、自分が映画界にはたした役割の最大のものは、和田夏十さんという脚本家を生んだことじゃないかとおっしゃってますがとの問いに、
“いや、いや、それは、本心、そう思ってます。”

画像


和田夏十、本名市川由美子 旧姓茂木由美子。

そもそも「和田夏十」という名は、東宝撮影所時代に市川と茂木が共同執筆するために考案したペンネームだった。
1951年の『恋人』で市川が「脚本の才能ではとても妻に及ばない」とこれを茂木に譲り、以後彼女専用のペンネームになったという経緯がある。

もともと彼女は脚本など興味もなく、書いたこともなかった。その手ほどき、いろはを教えたのは市川監督であったが、彼女の才能が開花した。だが、彼女は脚本を書くのは嫌いで、嫌々、ムリに書いていたという。
そして、「東京オリンピック」を最後に脚本家、和田夏十はペンを置く。
その後市川がどうしても和田と共同執筆をしたい場合には、「久里子亭」(くりすてい)というペンネームを用いた。

二人は1948年に結婚。茂木は以後40年近くにわたって市川の生活を支えるかたわら、脚本家・和田夏十としてその生涯でほとんどの市川作品の脚本を手がけるという、文字通り公私における市川のパートナーだった。
市川は自己の監督作品が称賛されると、「それは、夏十さんの功績です」と答えるのが常だった。実際二人の関係には「夫婦」や「同僚」のそれを越えた、「同士」のようなものがあった。

画像



1983年、「細雪」の撮影中、市川監督はその最高の脚本家であり、最愛の妻、和田夏十を病で失う。

この「細雪」は、市川監督にとって、いや市川夫妻にとって非常に意味の深い、特別な作品なのである。

市川監督は前々からこの谷崎潤一郎原作の「細雪」を撮りたかった。だが、奥様の和田夏十さんが断固として首を縦にふらなかった。
大阪の旧家・蒔岡家の四姉妹を中心に昭和初期の関西富裕階級を描いた上中下巻929ページからなる超大作でありながら、五年間の歳月が流れる間に数々の事件が起るものの、それらを繋ぐ筋書きらしいものがほとんどないという、脚本家泣かせの作品だからである。

“やりたい気持ちはわかるけど、膨大な長編を撮るのは無謀。だいいちこれまで二度も映画化されたけど、どれも成功しなかったわよ”
と大反対。

しかし闘病生活を送る中、自身の死期を悟ったのか、ある日、和田は市川監督に。
“五年間の出来事を一年の四季の移り変わりの中に凝縮する形で、四姉妹と絡めて脚本を書いたらいいわ”
とアドバイス。
それをもとに市川の脚本・監督で「細雪」は1983年に完成。

市川監督の代表作のひとつとなったが、奥様の和田夏十さんはその完成を見ることなくこの世を去ってしまった・・・・。

画像



映画評論家おすぎは、

「夏十さんの死後、市川監督の作品はすこしまとまり、訴求力がなくなっているように感じます。特にこの何年かはつくるものがすべて空回りしているような気がします。

ここ数年で一番いいのは、「細雪」ではないでしょうか。」

と言っている。

彼の映画評は好きではなく、まったく参考にしたことなどないが、この意見は正しいように感じる。
そう、あの「八つ墓村」を見る限り・・・・。


ただ、「細雪」の長女の役、岸恵子のキャスティングは監督自身が岸恵子本人に、ミスキャストだと言っている。
岸への第一声が、
「恵子ちゃんこれは、ミスキャストなんだけどね・・・。」
だったそうである・・・。
本当は山本富士子だったそうである。ところがスケジュールが調整できずに、仕方なく岸に依頼したそうである。



そして監督は、数ある作品の中でも非常に後悔している作品があるという。

「太平洋ひとりぼっち」(1963年、日活・石原プロ)

画像


画像


画像



“こりゃ、僕は失敗作なんですよ。いや~、あんないいシナリオがねぇ、あの程度にしかできなかったっていうね~
、いまだに悔いはありますね。ヨットなんてな、風次第でね、もっとはしれっつたって風がなけりゃ動かない、そこへ止まってくれつったて、風があるとはっしっちゃう。その時に、あのヨットにエンジンをつけりゃよかった、わからないように。それがあればもっと自由に、そのう、海の中でヨットと取り組めたと想うんですが、ヨットにひきずりまわされっちゃったんですよ、僕が。これは、やっぱり相当大きな失敗の原因だと想ってますよ。まあ、裕ちゃんはよくやってくれましたけどね、その中で。”





またまだビデオがない時代、映画監督として初めてテレビドラマの監督をしたのも市川監督であった。
当時テレビは演出法も確率されておらず、面食らうことも多々あったそうである。
当時のテレビはセットの窓にガラスがなく、急遽いれたり、フロアそのままで撮るのがあたりまえだったところに、土をいれさせたりと大変だったようである。


市川監督、唯一の自主製作作品『股旅』(1973年、崑プロ=ATG)。

画像


画像


TVドラマ「木枯らし紋次郎」は、実は市川監督が、この「股旅」をATGで撮りたかったが資金が不足していた。
その資金の為、ドラマを3話撮って、あとは若い人にまかせて、1クール監修してくれれば局から資金をださせるとTVプロデュサーに言われ、また背景が似ていた為、勉強にもなると撮ったそうである。

画像



そしてこの「股旅」を撮っている頃には「どら平太」』(2000年、『どら平太』製作委員会=日活)
の本はできあがっていたのである。

黒澤明、木下恵介、市川崑、小林正樹の「四騎の会」、4人が共同で脚本を書いた作品。
実際の映画化にあたり、市川監督は、すこし手直ししたものだそうですが、
監督はこの作品に対して、

“ええ、それはもう感慨、大なものがありますけれどもね、はい。”

脚本だけでなく、演出も分担しようということだったそうで、実現したらスゴイことになっていたと思うのですがとの問いに、

“ええ、僕はおもしろいものができたとおもいますけどね、そりゃ、私ひとりでやるよりは、四人でやったほうがおもしろい・・・・。”


当時84歳だった監督。
その映像職人としてのこだわりは当然ながら健在であった。
もともと画家になりたかった市川監督、アニメーターから映画の助監督をへて、監督になった彼、画コンテを自らかくのはいつもの習慣であった。
画像


画像


画像




市川組のスタッフは、映像職人としての監督を次のように語っている。

カメラマン 五十畑幸勇氏。

「監督は、やっぱ望遠っていうか、長なまがすきだからね、ワイドだとどうしても平面っていうか、ねっ、それ気をつけてる、それとやっぱりライティングですよね。レンズの方はやっぱり長焦点で深く撮ってて、それにライティングの奥深さをだしてゆくっていうかな。」



照明監督 下村和夫氏。

「映画っていうのは、ひとつの映像っていうのは、ライティングによって、あの、喜怒哀楽を表すっていう、僕がたまたま(市川監督に)書いてもらった色紙にありすけどね・・・。」
「僕はいままでいろんな監督と一緒にやってきましたけど、市川さんくらいなもんですね、ライティングに神経使ってくれる人は。ちょっといませんよね。」



照明チーフ古川正輝氏。

市川監督の特徴は、
「市川監督のライティングは、強いところはつよい、おちているところはおちている、極端なまでに徹底しています。」



チーフ助監督 小笠原佳文。

「市川組の場合、ぴーかんでは回らない。明るい曇天がいい。曇っているほうが安定しますでしょ。それでライトをあてると、それで微妙にこう光と影をつくるみたいな・・・。」




市川作品の人物に対する照明はほとんど真横からで、上からあてる常識的なライトは一切見あたらないという。日本人の凹凸のない顔を美しくみせる為の市川監督の職人としてのこだわり、テクニックなのである。

そんな光と影の技法が、その様式美が非常にマッチした作品が1970年代後半から生み出される。
そう、横溝正史原作の、金田一シリーズである。

画像


画像


画像



“僕は横溝さんのは、本陣殺人事件をやりたかったんですけど、あの当時誰かがやっちゃてたんですよ。それが残念だったんですけど、まあ、春樹君はあれじゃなくて派手なものをやりたいということで、それじゃ、それでやりましょうということで引き受けたんですけどね。”


岩井俊二氏は、大学にいって映画などにかかわるようになったころは、市川作品を、金田一シリーズを編集のお手本のようにしていた。
「犬神家」で佐竹の首が菊人形から落ちるシーンの前後、金田一の驚いた顔が、ぼけた画で一瞬だけはさまれる。
通常ならぼけて使い物にならない画をいれることによって、その尋常ならる驚きを表現している。
こんなのを見つけては、今でもおどろき、感心しているという。
画像




編集 長田千鶴子。

“ほんと編集がお好きで。編集だけしていたいとおっしゃてます。”

またリテイクが多い市川監督。
これはスタッッフも心得ていて、ダメだから撮り直すのではなく、よりよくするために撮り直す。


菅原文太いわく、

“光と影、というだけではなく、人間の明暗を、人間性の、人間の中の光の部分と暗部を考えられているのかもしれないね・・・。”

画像



これが映画監督、映像職人、市川崑なのである。



“そうですねぇ、つまり、間口ひろくね、奥行き深くと、なんかそういう、なんかあつかましい自分なりのひとつのこう、考え方をその、企画をもとめてるときに、そういう、そういう考え方でやてますよね。”


“僕は、どんなも素材でも映画にならないものはないという、なんか、そういうことをね、生意気に自分でこう、提唱してましてね。”


“所詮、映画は光と影だと思うんです。”

画像



この言葉に私は非常な感銘を受け、つよく共感する。
映像職人として、こだわりをもつ監督だからこその言葉。

そして、私はやはり、こう思う。
映画とは所詮、光と影。

この映像職人の誇りとこだわりが、そして決して辿り着くことのない永遠の可能性を秘めた、映像職人でさえいまだ完成をしていない愛すべき映画というものへの熱い、深い、この言葉。

だが、それ故に、どんな技法や工夫をこらそうとも、愛すべき、奥の深い、無限の可能性を秘めた映画とは、所詮、光と影なのである。けっしてそれ以上のものではない。あるわけがない。
私は映像職人のこの言葉がひどく心につきささり、感銘し、そして共感する。

今一度言おう、

所詮、映画は光と影・・・。

その芸術の域ともいえるこだわりをこめた映像美、その全ては観客の為。観客を楽しませ、その画から違和感なく夢の中への連れて行くためのもの。
製作側もいまだ辿り着くことのない夢を観客と共に追い求めているのである。

そう、映画とは観客にとってはそれ以外の何物でもない、そう、映画とはまぎれもなく観客の、いや大衆の、一般大衆の夢、娯楽なのである・・・・。



画像


画像


画像


画像


画像





市川崑監督作品

映画

『娘道成寺』(1945年、東宝教育映画)
『東宝千一夜 大阪編』(1947年、新東宝)
『三百六十五夜』(1948年、新東宝)
『花ひらく』(1948年、新東宝)
『果てしなき情熱』(1949年、新世紀プロ=新東宝)
『人間模様』(1949年、新東宝)
『銀座三四郎』(1950年、新東宝=青柳プロ)
『暁の追跡』(1950年、田中プロ=新東宝)
『熱泥地』(1950年、新東宝)
『恋人』(1951年、新東宝=昭映プロ)
『盗まれた恋』(1951年、新東宝=青柳プロ)
『無国籍者』(1951年、昭映プロ=東横映画)
『夜来香』(1951年、新東宝=昭映プロ)
『ブンガワンソロ』(1951年、新東宝)
『結婚行進曲』(1951年、東宝)
『足にさわった女』(1952年、東宝)
『あの手この手』(1952年、大映京都)
『若い人』(1952年、東宝)
『ラッキーさん』(1952年、東宝)
『青色革命』(1953年、東宝)
『愛人』(1953年、東宝)
『プーサン』(1953年、東宝)
『天晴れ一番手柄 青春銭形平次』(1953年、東宝)
『わたしの凡てを』(1954年、東宝)
『女性に関する十二章』(1954年、東宝)
『億万長者』(1954年、青年俳優クラブ)
『こころ』(1955年、日活)
『青春怪談』(1955年、日活)
『ビルマの竪琴 第一部』(1956年、日活)
『ビルマの竪琴 第二部』(1956年、日活)
『日本橋』(1956年、大映東京)
『処刑の部屋』(1956年、大映東京)
『東北の神武たち』(1957年、東宝)
『満員電車』(1957年、大映東京)
『穴』(1957年、大映東京)
『炎上』(1958年、大映京都)
『あなたと私の合言葉 さようなら、今日は』(1959年、大映東京)
『野火』(1959年、大映東京)
『鍵』(1959年、大映東京)
『おとうと』(1960年、大映東京)
『女経』(1960年、大映東京)
『ぼんち』(1960年、大映京都)
『黒い十人の女』(1961年、大映東京)
『破戒』(1962年、大映京都)
『私は二歳』(1962年、大映東京)
『太平洋ひとりぼっち』(1963年、日活・石原プロ)
『雪之丞変化』(1963年、大映京都)
『ど根性物語 銭の踊り』(1964年、大映東京)
『東京オリンピック』(1965年、東京オリンピック映画協会)* 総監督
『トッポ・ジージョのボタン戦争』(1967年、東宝東和)
『第50回全国高校野球選手権大会 青春』(1968年、朝日新聞=朝日テレビニュース)* 総監督
『愛ふたたび』(1971年、東宝)
『股旅』(1973年、崑プロ=ATG)脚本:市川崑・谷川俊太郎
『吾輩は猫である』(1975年、芸苑社)
『犬神家の一族』(1976年、角川春樹事務所)
『妻と女の間』(1976年、東宝=芸苑社)* 豊田四郎と共同監督
『悪魔の手毬唄』(1977年、東宝)
『獄門島』(1977年、東宝)
『火の鳥』(1978年、火の鳥プロ=東宝)
『女王蜂』(1978年、東宝)
『病院坂の首縊りの家』(1979年、東宝)
『銀河鉄道999 (The Galaxy Express 999)』(1979年、東映)* 監修
『古都』(1980年、東宝=ホリ企画)
『幸福』(1981年、フォーライフ=東宝)
『細雪』(1983年、東宝)
『おはん』(1984年、東宝)
『ビルマの竪琴』(1985年、フジテレビ=博報堂=キネマ東京)
『鹿鳴館』(1986年、MARUGEN-FILM)
『竹取物語』(1987年、東宝=フジテレビ)
『映画女優』(1987年、東宝)
『つる 鶴』(1988年、東宝)
『天河伝説殺人事件』(1991年、東映=『天河伝説殺人事件』製作委員会)
『帰ってきた木枯し紋次郎』(1993年、フジテレビ=C.A.L)
『忠臣蔵 四十七人の刺客』(1994年、東宝)
『八つ墓村』(1996年、東宝)
『どら平太』(2000年、『どら平太』製作委員会=日活)
『新撰組』(2000年、フジテレビ=メディアポックス)
『かあちゃん』(2001年、映像京都=日活=イマジカ=シナノ企画)
『犬神家の一族』(2006年、角川映画)
『ユメ十夜・第二夜』(2007年、バイオタイド=日活)



映像職人は、あの世でもメガホンをとっておられるのだろうか・・・。


心からご冥福をお祈り申し上げます。






ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのトラックバック

  • 岸恵子

    Excerpt: スープのように、温かくなる。 、湿り気を帯びた男性なのです。この世界にピッタリ... Weblog: かずみの出来事 racked: 2008-09-25 14:24