“映画は、所詮、光と影。”  ~市川崑監督を偲ぶ・・・。

巨匠が逝かれて、はや半年以上が経つ・・・・。
そう、あの映像美の巨匠、映画職人、映像職人である映画監督、市川崑。

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私は、大変失礼ながら、正直金田一以外の市川作品はきちんと鑑賞したことがない。
非常に、多彩に、さまざまな分野の作品を数多く撮ってきた監督であることは知っているが・・・。

しかし、その画、カット割りや、カメラアングル等は非常に私の好みであり、
また、私にとっては、金田一シリーズだけでも市川監督の魅力、凄さを知るに十二分であった。

ミステリー好きの私だが、さほど好きではなかった、いやむしろ抵抗の感があった横溝正史の作品を、これほどまでに夢中にさせたのはあの「犬神家の一族」にはほかならないのである。

そして、あの市川監督による金田一シリーズ、ここでいうそのシリーズとは、1970年代後半につくられた石坂+市川コンビによる「犬神家」~「病院坂」までであるが、これは何回、いや何十回と鑑賞し、今でも定期的に鑑賞する作品である・・・。

あの市川金田一が、そう市川崑の金田一耕助があったからこそ、あれでなければ、私はここまで金田一耕助に夢中にならなかったであろう。そして、あの横溝文学を深く理解できなかったかもしれない。
私の中では、市川崑監督の作品のほんの一部にすぎない金田一シリーズだが、その偉大さ、映像職人としての凄さを知るに十分なのである。


いずれ、市川監督の金田一以外の作品も鑑賞したいと強く想うのだが、
監督の言葉で非常に、感銘し、共感をおぼえる言葉がある。


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“所詮、映画は光と影。”



映画とはまさにそうであり、映画職人として、その画にこだわり、映像の美を追究した監督らしい言葉である。
そして、正に映像職人としての言葉。




監督が亡くなられた時期に、某国営放送で追悼として再放送された市川監督の特集番組を、今さらながらみてみた。「どら平太」を撮り終えた時期に制作された番組である。


当然、知っていたこともあったが、あらためて認識した点あり、新たに知る点もあり、非常に感動、感心させられた。
その辺について、記述してみる。



市川崑を尊敬し、映画「市川崑物語」の監督も務めた、映画監督の岩井俊二。
彼は、「犬神家の一族」が非常に好きで、大いにショックをうけ、映画そのものを好きになったきっかけでもある作品らしい。

また、市川監督について、次のように語っている。

“サービス精神がずっとそこなわれずに、すごく商業主義的なところをひた走りに走りつつ、アート系の映画の持っていない技術だとかスタイルだとかを両方やっていたところがすごい・・・”

また、

“「犬神家」とか「細雪」をみて、過去の作品をみると、「犬神家」とかが若い監督が撮ってて、「弟」とかが、その監督がある円熟期に達し時に撮ったような、逆の印象がある。なんでだろう、この人、って不思議に思います。”






戦後、映画の黄金期、映画撮影所が夢の工場といわれた時代。

市川監督は、映画会社も数社を自由に行き来し、一年間に6本作品を製作するなど、夢をつくり続けた。
戦争悲劇・青春ドラマ・ラブコメデフィ・喜劇・時代劇・文芸大作と撮りまくり、
当時の映画ファンが次ぎに何がでるか分からないとあきれた程、市川映画のジャンルは多彩であった。

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(この画像は定期的に変えます)



1956年から、多彩な振幅はますます激しくなり、映画史に残る名作が次々に誕生すると当時に、トラブルの数もふえていった。

市川監督は、次のように述べている。

“常に挑戦というと、おおげさだけども、なんかこう、原作の持っているものを吸収したいということと、それから、原作を単にこう映画化してしまうと、まあダイジェストで、ね、ダイジェストになっちゃうという、それを避けたいということで、どうしても原作とぶつかってみるということで、衝突したりするんですよね。「野火」だって、大岡さんいだいぶ叱られましたけどね・・・。”

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また、あの表現の自由を主張したあの論争。

石原慎太郎原作の映画『処刑の部屋』について、キネマ旬報誌上での対談で、朝日新聞の映画貴社である井沢淳氏が映画の反社会性を批判し、映画としての表現、描写の自由を主張する市川混と大論争になった。

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“当時、大論争でしょう、ありゃぁ。”
市川監督は自身でこう当時をふりかえった。

睡眠薬を飲ませてのレイプシーンが問題となり、映倫の改組にまで発展し て、「キネマ旬報」誌上で市川崑監督と映画評論家の井沢淳との大論争に至ったのである 。
だが、市川監督は表現の自由を主張し、一歩もその主張を譲らなかった・・・。

完成の試写会時に、石原慎太郎と市川監督のふたりがそろい、石原氏は市川監督を目の前にして、“これは俺の原作じゃないな”などと発言。当時あのようにズケズケと者を言う人がいない時代に、市川は唖然としたという。

その後、市川は「穴」という作品で慎太郎に出演を依頼し、唄などもうたってもらっている。
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「東京オリンピック」は、一般に、従来の「記録映画」とは全く性質の異なる極めて芸術性の高い作品に仕上げた。さらに、オリンピック担当大臣の河野一郎が「記録性を無視している」とこれを批判したことから、「記録か芸術か」という論争を国中を巻き込む大論争を呼び起こすことになったという作品の解説・説明の文章をよく目にする。

だが、映画そのものは、世界のドキュメンタリーの流れを変え、クロード・ルルーシュ氏をはじめ多くの映像作家に多大な影響を与えた。

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私は鑑賞していいないのだが、まず基本は「不都合な真実」でも記述したように、私は活動なり、何かなりの記録映画、ドキュメンタリーは私の概念では映画ではないですね。
この作品は、市川監督は、奥様の和田夏十さんらと綿密な脚本を書き、私は映画を作ってくれと頼まれたので、基本的には従来のやり方を変えたくなかったとおっしゃられている。
多彩なジャンルを撮ってこられた市川監督にはこれも当然映画なのである。
しかし私的には・・・。

また、純粋な記録映画でなく、従来の映画と同じように取り組み、その職人としての画へのこだわりと技を使ったことを、競技や記録性を無視した、一般に芸術性が高い作品、芸術的と表現しているのだろうが、これはその製作過程とその完成度を芸術の域であるということは否定はしない。しかし、やはりこの作品を、映画自体を芸術であるとすることは私は、やはりおおきな違和感を感じる。そして従来の映画と同じに取り組んで撮られてことで、私は正式には未見ながら、私的には、映画と思えるかもしれない。そう、個人的な感じ方の差はあれど、一般大衆への想い、娯楽性が垣間見られるのではとの想いがある。

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「あれは、まあ、黒さん(黒澤明)がやるつもり、予定だったのを、(予算がおりあわなかった)なんかで、僕はピンチヒッターで頼まれたわけでしょう。だけどまあ、ひきうけたからには何とかしなきゃいけないっていうんで、それでまあ、オリンピックは一体なんだろうってところから初めてみたんですよね。四年ごとに世界の若い人が集まって、一同に介して運動会をやるんだと、で、戦争がなきゃそれができるんだと、いうところにオリンピックの意義があるんじゃないかということで、スタートしたもんですから。ですから、まあ、競技がおろそかになったとかなんか言われましたしね、したんですけどまっ、しかし僕は映画をつくれって言われたんですからね。映画をつくる工程はいつもとあまり変わりたく無いと想って、いつも通りやったもんですから、それでいろいろあとで問題がおきたんじゃないでしょうかね。」
そう、市川監督らしい、きちんと綿密な脚本を書き、反戦の想いと、人間を撮るというその核、普段の映画と変わらない想いで撮られた作品なのである。そう、映像職人としてのこだわり、と技を投じて・・・・。

(つづく)






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