「破線のマリス」 戦慄の恐怖・・・・。

展開、ストーリーにその心情を考慮したときに、私は違和感を感じる。

ただ、それが子供のやることなのか・・・。いや、私は映画的な展開、ストーリーだと思う。
映画的にはこうでなくてはならない。
実際に映画としては楽しめた。
だが、その心情を、愛情を考えた場合に10歳の子供に・・・・。
これは当然、父親の存在があるということで解釈すべきなのであろう。
いや、それもおかしい。やはり矛盾がある・・・・・。


誰かがあなたを常にみている。
それは、常にみる、それは愛情に他ならない。
これに勝る想いを私は、知らない・・・・。

愛する人の全てを見たい・・・・。
愛するが故に皮肉な、いや道理としてな当然の結果に。

そして、愛故にその行為に納得し、素直に認める・・・・。



表面的に感じるのは、映像の、その素材の編集の怖さ。
編集する人間の視点によって、映像は操作され、その主観が、ひとりの主観が公になる怖さを描いている。

だが、真の恐怖はそこではない。

そう、笑顔である・・・・。

『笑ってるよ・・・・。』

映像を見た人々は口々にそう言う。
そしてある共通の思いを心に浮かべる。
それが編集者の主観・・・・。

だが、だが、決してその映像が、決して全てではない。
その映像は事実だが、決して真実ではない。

そう、映像とは物事の、人のあくまでもい上辺だかしかとらえていない。
その心の中までは決して見ていない。
ところが、映像を見た人々はその物事の本質を、その人物の真実を、そう心の中をみすかしたように錯覚してしまう場合がある・・・・・。

とても恐ろしいことである・・・・・・。
わかっていても、編集と理解していながら、どこまでその本質を、心の声を見る側が拾えるのか。
当然それが全て、あたりまえとは言わないが、仕事とした場合に、作り手が、数字をとればいいという思いが強くあるとする中で、それは果たしてどこまで・・・。
真実の映像、報道・・・・。何が・・・・。

その悪意は故意ならば当然話にならないが、それは無意識の悪意かも・・・・・。


それは事実ではなるが、決して真実ではない。

純粋な目がだけが真実をとらえるのか、決してそうではない。
純粋な目こそが偽りなき事実をとらえ、その判別は全てが同じ目とは限らない。
私は心情的にその個性が関連してくると思う。

愛するが故に、事実を見聞きし、愛するが故にそれを黙認する場合もあれば、愛するが故にその事実から真実をわりだす場合もある・・・・。

この映画で私は、少年はただ、ただ愛する母を常にみていたかっただけなのだと思う・・・。
それは間違っているかもしれない。
だが、私はそう想う・・・・・。

彼には、仕事を理解するふりをしていても、所詮、愛する母だったのだと、それは編集者であれ、犯罪者であれ、かわらぬ母だったのだと・・・・・・。
だからか、いや、やはりこの本には矛盾がある。
映画的に都合がいい展開・・・・。


今更ながら、私は恐ろしいものをみてしまったのかもしれない・・・・。
映画の内容というより、その核たる部分に、

戦慄が走る・・・・・。




ところで、この本、もうひとつの点でも本当にこれでいいのか。
私にはその核故に、その主題へのすり替えというか、大きな謎の振りを解決しない中途半端な本にも思える・・・・。
私がその核に浸かりすぎたか・・・・。


















ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのトラックバック