「シャッターアイランド」 ~覚醒の恐怖・・・・ (再追記;感想訂正)
「あなたはこの謎が解けるか?」
この予告編を見てから、この私が、ミステリー好きの私が鑑賞しないわけにはいかないでしょう。
ネタバレをしている内容ですので、未見の方は、ご自身の判断にて・・・・。
鑑賞後のまず第一声は、
「これはミステリーではない。」
そして、ここに早めに追記しますが、正直、風邪気味で、薬の影響もあり、睡魔がときどき襲う中、鑑賞した1回目、やはり私は、錯覚しないようにと、別のことにとらわれすぎて、この作品の本質をみぬけなかった・・・・。
再見して気づきました。
非常になさけないですが、あのラストの意味に・・・・。
これについては、最後に追記します・・・。
(私の最終的な感想は【再追記】に)
初見時の感想に戻ります。
さらには、
「謎ときではない、謎解きとはこうものを、私の中では謎解きとは、ミステリーとはいわない。
本格ミステリーなどではない・・・・・。」
その意味では、多くの方が書かれているようにガッガリします。
臨機応変に、先入観にとらわれずに、それこそバランス感覚とでもいうのでしょうか、映画なりに楽しむよう心がけて、そう、私のように楽しんで鑑賞する方ならば、そこそこは楽しめるでしょう。
そして、これも多くの方に賛同なのですが、宣伝がね、特に鑑賞前に脳の錯覚などということをすり込まれると、必要以上に深読みしてしまいます。
これはミステリーカテゴリーではないと認識しつつも、勘ぐりながら鑑賞してしまう。
それが、そこが錯覚と表現しているのか?
いやいや、それこそ深読みしすぎか。
この手の、幻想、幻覚を見るパターン、慌てて飛び起きるシーンがある作品では、要は何でもありになってしまうんですよ。
もしかしたら、全部が妄想?
それとも、実は全て一人の人間?その頭の中だけの・・・・。
それとも、本当は存在しない?さすがにそれはないか・・・・・。
などなど、疑い出すと真のストーリーが追えなくなります。
作品なりにみようとしてもどこかね・・・・。
と、いいつつも、実はそのままか、つまり一番素直なパターンかとも・・・・・・。
とにかく、現実ではないことはだれでも・・・・・。
台詞でわかりやすくしているようですが、私は残念ながら多くの方が書かれているような、早めの決定的な部分は気づかずに鑑賞してしまいましたが、
幻想パターンの作品である段階で、ある程度の想像はね、そして施設からしてもね・・・・・・。
雰囲気はよかったですよね。
スコセッシ。
ただ、くどいかな・・・・・。
それと、やはり最後の台詞で救われている部分は多いかな。
それにより、あの灯台の画が生きる。
まあ、ミステリーというか、いや、決してミステリーではない、
サスペンスらしいといえばその一点か・・・・・。
私は、「ミステック・リバー」ほど、深く心に響かない・・・・。
人間の弱さと強さ、それは内なる狂気か、心ひとつ・・・・。
あの作品、私は多くの人が感じたような後味の悪さは一切感じなかった。
ただ、切なさで心が満ちあふれた。
それは、すべての人物にだが、一番は周囲の人間か。
その心の強さと、雄大な、何も変わらない大きな川の流れ故に。
いつもと何も変わらない、人がひとりこの世からいなくなったくらいでは、大きな流れは何一つ。
その川の流れのように全てを流さるかどうか。
決して不条理だけではない、心の強さが左右する。
殺された本人、そして心配する身内。
その中で平然とすぎる日常と周囲・・・・、それは、
自身の手でくだしながら、全てを知りながら、察しながら・・・・。
それが、全てを流そうとするその心の強さが、
哀しいく、痛い位、切なかった・・・・。
その点、この人物は・・・、
一見重そうに感じるが、要は、優しさというよりも、心の弱さ故に・・・・・。
愛故か、自責の念故か、いや、結局は、
現実を直視できなかった、うけいれられなかったその自身の弱さが全て・・・・。
故に、その逃げから、己自身が・・・・・・。
いや、怒りからの行為か、内なる狂気がそうさせたのか、しからば、何故その後に・・・・・、
やはり、
妄想もしかり、恐怖故か、現実逃避。
要は自業・・・・・・・、
おっと、あまり書けないですが、
私はこの手の弱さはちょっとね・・・・・・・・。
人間は、全ての過去を、たとえそれがどんなに想像を絶するものであっても受け入れられなければ先には決して進めない・・・・。心の弱さは己の崩壊をまねく・・・・・。
私は心の強さにこそ、惹かれる。
それは自身が弱い故か・・・・・・。
その意味では、やはり周囲の人間の冷静さが第三者の職務とはいえ、逆にそれが人間の怖さであり、優しさなのであろう・・・・・。
最後、彼に話しかける相棒もしかり・・・・。
心の葛藤、戦いの末に、結局は・・・・・・。
人は、現実を受け入れる強さにこそ、感動し、その哀しみの真の深さに涙する・・・・・。
心の逃亡者、責をも受け入れず、自身でけじめもつけられない逃亡者に、その哀しみには到底同情はできない・・・・・・・。いや、本人がさせない。
閉ざされた心には・・・・・・・・。
私は今ひとつ、深くはいりこめなかった。
単純に流れと行動を映画として楽しんだだけ・・・・・・・。
それしか感じさせない・・・・・・。
流れを楽しまないと、
そうでなければ、この手のサイコ系サスペンスにはいつも、哀れさしか残らない。
別人格が強ければまた別の想いも抱けるが・・・・・。
そうでなければ、
哀れな逃亡者、現実からの・・・・・・・・・。
たとえ、どんなことにテーマを置こうが、哀れなだけ・・・・・・・。
最後のセリフにしても、それはいえる・・・・・・・・。
が、
だけど、
まさか、「ハイド・アンド・シーク」のようなオチではないですよね・・・・・・・・。
最後の絵ならぬ、最後のセリフこそが・・・・・・・・・・
いやいや、それだと灯台でのシーンでの院長の台詞の意味がなくなるよね・・・・・・・。
というか、灯台の中をみましたものね・・・・・・・。
皆さん、素直に鑑賞しましょう。
やばいっ、書きすぎか・・・・・・・。
それでも、意見がわかれてしまうのがこの手の作品か、
好みもあるしね・・・・・・。
再見するとまた想いがかわるかもしれない・・・・・・・・。
【追記】
※再見してますが、
私には、始まってすぐには正体を確信することは、やはりできませんが、相棒が実は保安官でないのでは・・・・、という点は冒頭の方でわかりますね。コレ、一回目も見た時に気になっていたことですが、その後スッカリ忘れてました。
また、早い段階での複数の不思議な点が、正体が判明していることを理解して鑑賞すると、納得ですね。
だが、知っていないと当然、別の可能性もすてきれませんが。
やはり、私はこの段階では確信はできないですね、あくまでも可能性の域・・・・。
しかし、
なるほど、かなり早い段階で、相棒がシーアン医師であることが確認できる描写がありますね。
それと、決定的なシーンは、私は、55分くらいのあのシーンですよね。
ここで、全てはもう明らかになります。
やはり、1回目同様、私は可能性は当然ですが、確信できる決定的なシーンは再見しても一緒でした・・・・・。
まあ、これよりも前に、疑いでなく確信してしまった方もそうですが、このシーンからでも確認する作業というか、
先があまりに長すぎますよね・・・・。
やはり、私にいわせるとくどい気が・・・・・。
要は、真に訴えたいことは別なんだろうね。
だが、何を訴えたいか知りませんが、結局、哀れでしかたがない・・・・・・。
狂気が人を変えてしまう、そして内なる狂気を呼び覚ます、その恐ろしさか・・・・。
だが、その狂気にもなりきれない、迷走なる自己逃亡の幻覚・・・。
やはり、悪にもなりきれない、心の弱さ、
周囲をまきこんでの自分を取り戻す為の旅、彼の為の最後の手段だったのだが、
その課程は哀れでしかない・・・・・。
やはり、私は、深く考えずに展開を楽しむ方が無難であろう・・・・。
そうなると、やはりくどいな~!!
【再追記】 ここからが最終的な感想です。
最後まで、再見して、私は間違ったました。
ラストの解釈を。
私は、1回目で確信してからの確認作業の中で、あれが一番サスペンスらしい終わりかただと
そう、愚かにも、あれが実は操られていた彼の本当の姿ではないかともとれる描写だと想ってしまいました・・・・。
つまり、展開上の救いだと私は感じていました・・・。
脳の思いこみの怖さですね。
私は、所見で彼がまた哀れにも戻ってしまったとも、いやいや、あれが真実の彼の姿であり、その上での台詞、的確な事実、展開上有効な台詞だと解釈してしまったんです・・・・・。
なんでそう感じてしまったんでしょう・・・・。
恐ろしいですね・・・・。
これが、“鑑賞者のもの”なのでしょうかね・・・・・。
いや、この作品、実は彼は完全に覚醒したんですね。
課程は哀れであるが、哀れしか感じないというのは私の完全な誤りでした・・・・。
彼の意志なんですね。
狂気からの脱却、いや、はたしてそうか、これこそが、彼の選択こそが狂気なのかもしれない。
『この場所は、様々なことを考えさせられる。』
『何をですか、ボス。』
『嫌なのはどっちなんだろう。
モンスターとして生きることと、善人として死ぬ事の・・・・・』
『テディ』
シーアン医師のその問いかけに、彼は何の反応もせずに歩いてゆく・・・・・・・・・。
彼は、哀れな自身から覚醒し、自身でその道を選択した。
それが狂気か、それこそ哀れな道か。
しかし、彼自身の選択であることに、かつての哀れさは微塵もない。
彼は、結局覚醒後も現実を受け入れなれなかった、耐えられなかった、その思いを消せずにいた。
これはやはり、心の弱さ故か・・・・・。
いや、そう簡単にはいいきれない。
何故なら、その選択は、
幻覚ではない彼自身の意志なのだから・・・・・。
さらには、周囲のしたことは治療であったのか、あのまま自身を失ったほうが幸せではなかったのか・・・・。
いや、覚醒後の意志による選択にこそ意味がある。
そうでなければ、正しく哀れなだけ・・・・・・。
これが、覚醒の真の恐怖か・・・・・・。
しかし、やはり私は想う。
人は過去の事実をうけとめ、自身で真実をつかまないと先へは進めない。
その後の自身の選択なれば、それは意味をもつ・・・・・・。
やはり、心の強さとは、
切ない・・・・・・・・。
最後にやってくれましたね。
スコセッシっ。
こうなってくると、何も深いものは感じない、哀れなだけという最初の私の感想は、それこそ哀れなものに・・・・・・・。
最後に、戸田奈津子女史の字幕、翻訳は、よくないね。
この手は、素直な直訳のが、鑑賞者のイメージを膨らませ、画から素直な見方をさせる。
下手な意訳は、かえって違った方向へ導いてしまう・・・・・・。
この予告編を見てから、この私が、ミステリー好きの私が鑑賞しないわけにはいかないでしょう。
ネタバレをしている内容ですので、未見の方は、ご自身の判断にて・・・・。
鑑賞後のまず第一声は、
「これはミステリーではない。」
そして、ここに早めに追記しますが、正直、風邪気味で、薬の影響もあり、睡魔がときどき襲う中、鑑賞した1回目、やはり私は、錯覚しないようにと、別のことにとらわれすぎて、この作品の本質をみぬけなかった・・・・。
再見して気づきました。
非常になさけないですが、あのラストの意味に・・・・。
これについては、最後に追記します・・・。
(私の最終的な感想は【再追記】に)
初見時の感想に戻ります。
さらには、
「謎ときではない、謎解きとはこうものを、私の中では謎解きとは、ミステリーとはいわない。
本格ミステリーなどではない・・・・・。」
その意味では、多くの方が書かれているようにガッガリします。
臨機応変に、先入観にとらわれずに、それこそバランス感覚とでもいうのでしょうか、映画なりに楽しむよう心がけて、そう、私のように楽しんで鑑賞する方ならば、そこそこは楽しめるでしょう。
そして、これも多くの方に賛同なのですが、宣伝がね、特に鑑賞前に脳の錯覚などということをすり込まれると、必要以上に深読みしてしまいます。
これはミステリーカテゴリーではないと認識しつつも、勘ぐりながら鑑賞してしまう。
それが、そこが錯覚と表現しているのか?
いやいや、それこそ深読みしすぎか。
この手の、幻想、幻覚を見るパターン、慌てて飛び起きるシーンがある作品では、要は何でもありになってしまうんですよ。
もしかしたら、全部が妄想?
それとも、実は全て一人の人間?その頭の中だけの・・・・。
それとも、本当は存在しない?さすがにそれはないか・・・・・。
などなど、疑い出すと真のストーリーが追えなくなります。
作品なりにみようとしてもどこかね・・・・。
と、いいつつも、実はそのままか、つまり一番素直なパターンかとも・・・・・・。
とにかく、現実ではないことはだれでも・・・・・。
台詞でわかりやすくしているようですが、私は残念ながら多くの方が書かれているような、早めの決定的な部分は気づかずに鑑賞してしまいましたが、
幻想パターンの作品である段階で、ある程度の想像はね、そして施設からしてもね・・・・・・。
雰囲気はよかったですよね。
スコセッシ。
ただ、くどいかな・・・・・。
それと、やはり最後の台詞で救われている部分は多いかな。
それにより、あの灯台の画が生きる。
まあ、ミステリーというか、いや、決してミステリーではない、
サスペンスらしいといえばその一点か・・・・・。
私は、「ミステック・リバー」ほど、深く心に響かない・・・・。
人間の弱さと強さ、それは内なる狂気か、心ひとつ・・・・。
あの作品、私は多くの人が感じたような後味の悪さは一切感じなかった。
ただ、切なさで心が満ちあふれた。
それは、すべての人物にだが、一番は周囲の人間か。
その心の強さと、雄大な、何も変わらない大きな川の流れ故に。
いつもと何も変わらない、人がひとりこの世からいなくなったくらいでは、大きな流れは何一つ。
その川の流れのように全てを流さるかどうか。
決して不条理だけではない、心の強さが左右する。
殺された本人、そして心配する身内。
その中で平然とすぎる日常と周囲・・・・、それは、
自身の手でくだしながら、全てを知りながら、察しながら・・・・。
それが、全てを流そうとするその心の強さが、
哀しいく、痛い位、切なかった・・・・。
その点、この人物は・・・、
一見重そうに感じるが、要は、優しさというよりも、心の弱さ故に・・・・・。
愛故か、自責の念故か、いや、結局は、
現実を直視できなかった、うけいれられなかったその自身の弱さが全て・・・・。
故に、その逃げから、己自身が・・・・・・。
いや、怒りからの行為か、内なる狂気がそうさせたのか、しからば、何故その後に・・・・・、
やはり、
妄想もしかり、恐怖故か、現実逃避。
要は自業・・・・・・・、
おっと、あまり書けないですが、
私はこの手の弱さはちょっとね・・・・・・・・。
人間は、全ての過去を、たとえそれがどんなに想像を絶するものであっても受け入れられなければ先には決して進めない・・・・。心の弱さは己の崩壊をまねく・・・・・。
私は心の強さにこそ、惹かれる。
それは自身が弱い故か・・・・・・。
その意味では、やはり周囲の人間の冷静さが第三者の職務とはいえ、逆にそれが人間の怖さであり、優しさなのであろう・・・・・。
最後、彼に話しかける相棒もしかり・・・・。
心の葛藤、戦いの末に、結局は・・・・・・。
人は、現実を受け入れる強さにこそ、感動し、その哀しみの真の深さに涙する・・・・・。
心の逃亡者、責をも受け入れず、自身でけじめもつけられない逃亡者に、その哀しみには到底同情はできない・・・・・・・。いや、本人がさせない。
閉ざされた心には・・・・・・・・。
私は今ひとつ、深くはいりこめなかった。
単純に流れと行動を映画として楽しんだだけ・・・・・・・。
それしか感じさせない・・・・・・。
流れを楽しまないと、
そうでなければ、この手のサイコ系サスペンスにはいつも、哀れさしか残らない。
別人格が強ければまた別の想いも抱けるが・・・・・。
そうでなければ、
哀れな逃亡者、現実からの・・・・・・・・・。
たとえ、どんなことにテーマを置こうが、哀れなだけ・・・・・・・。
最後のセリフにしても、それはいえる・・・・・・・・。
が、
だけど、
まさか、「ハイド・アンド・シーク」のようなオチではないですよね・・・・・・・・。
最後の絵ならぬ、最後のセリフこそが・・・・・・・・・・
いやいや、それだと灯台でのシーンでの院長の台詞の意味がなくなるよね・・・・・・・。
というか、灯台の中をみましたものね・・・・・・・。
皆さん、素直に鑑賞しましょう。
やばいっ、書きすぎか・・・・・・・。
それでも、意見がわかれてしまうのがこの手の作品か、
好みもあるしね・・・・・・。
再見するとまた想いがかわるかもしれない・・・・・・・・。
【追記】
※再見してますが、
私には、始まってすぐには正体を確信することは、やはりできませんが、相棒が実は保安官でないのでは・・・・、という点は冒頭の方でわかりますね。コレ、一回目も見た時に気になっていたことですが、その後スッカリ忘れてました。
また、早い段階での複数の不思議な点が、正体が判明していることを理解して鑑賞すると、納得ですね。
だが、知っていないと当然、別の可能性もすてきれませんが。
やはり、私はこの段階では確信はできないですね、あくまでも可能性の域・・・・。
しかし、
なるほど、かなり早い段階で、相棒がシーアン医師であることが確認できる描写がありますね。
それと、決定的なシーンは、私は、55分くらいのあのシーンですよね。
ここで、全てはもう明らかになります。
やはり、1回目同様、私は可能性は当然ですが、確信できる決定的なシーンは再見しても一緒でした・・・・・。
まあ、これよりも前に、疑いでなく確信してしまった方もそうですが、このシーンからでも確認する作業というか、
先があまりに長すぎますよね・・・・。
やはり、私にいわせるとくどい気が・・・・・。
要は、真に訴えたいことは別なんだろうね。
だが、何を訴えたいか知りませんが、結局、哀れでしかたがない・・・・・・。
狂気が人を変えてしまう、そして内なる狂気を呼び覚ます、その恐ろしさか・・・・。
だが、その狂気にもなりきれない、迷走なる自己逃亡の幻覚・・・。
やはり、悪にもなりきれない、心の弱さ、
周囲をまきこんでの自分を取り戻す為の旅、彼の為の最後の手段だったのだが、
その課程は哀れでしかない・・・・・。
やはり、私は、深く考えずに展開を楽しむ方が無難であろう・・・・。
そうなると、やはりくどいな~!!
【再追記】 ここからが最終的な感想です。
最後まで、再見して、私は間違ったました。
ラストの解釈を。
私は、1回目で確信してからの確認作業の中で、あれが一番サスペンスらしい終わりかただと
そう、愚かにも、あれが実は操られていた彼の本当の姿ではないかともとれる描写だと想ってしまいました・・・・。
つまり、展開上の救いだと私は感じていました・・・。
脳の思いこみの怖さですね。
私は、所見で彼がまた哀れにも戻ってしまったとも、いやいや、あれが真実の彼の姿であり、その上での台詞、的確な事実、展開上有効な台詞だと解釈してしまったんです・・・・・。
なんでそう感じてしまったんでしょう・・・・。
恐ろしいですね・・・・。
これが、“鑑賞者のもの”なのでしょうかね・・・・・。
いや、この作品、実は彼は完全に覚醒したんですね。
課程は哀れであるが、哀れしか感じないというのは私の完全な誤りでした・・・・。
彼の意志なんですね。
狂気からの脱却、いや、はたしてそうか、これこそが、彼の選択こそが狂気なのかもしれない。
『この場所は、様々なことを考えさせられる。』
『何をですか、ボス。』
『嫌なのはどっちなんだろう。
モンスターとして生きることと、善人として死ぬ事の・・・・・』
『テディ』
シーアン医師のその問いかけに、彼は何の反応もせずに歩いてゆく・・・・・・・・・。
彼は、哀れな自身から覚醒し、自身でその道を選択した。
それが狂気か、それこそ哀れな道か。
しかし、彼自身の選択であることに、かつての哀れさは微塵もない。
彼は、結局覚醒後も現実を受け入れなれなかった、耐えられなかった、その思いを消せずにいた。
これはやはり、心の弱さ故か・・・・・。
いや、そう簡単にはいいきれない。
何故なら、その選択は、
幻覚ではない彼自身の意志なのだから・・・・・。
さらには、周囲のしたことは治療であったのか、あのまま自身を失ったほうが幸せではなかったのか・・・・。
いや、覚醒後の意志による選択にこそ意味がある。
そうでなければ、正しく哀れなだけ・・・・・・。
これが、覚醒の真の恐怖か・・・・・・。
しかし、やはり私は想う。
人は過去の事実をうけとめ、自身で真実をつかまないと先へは進めない。
その後の自身の選択なれば、それは意味をもつ・・・・・・。
やはり、心の強さとは、
切ない・・・・・・・・。
最後にやってくれましたね。
スコセッシっ。
こうなってくると、何も深いものは感じない、哀れなだけという最初の私の感想は、それこそ哀れなものに・・・・・・・。
最後に、戸田奈津子女史の字幕、翻訳は、よくないね。
この手は、素直な直訳のが、鑑賞者のイメージを膨らませ、画から素直な見方をさせる。
下手な意訳は、かえって違った方向へ導いてしまう・・・・・・。