八日目の蝉
恵理菜は、過去の呪縛をとかなくては前にすすめない。
これは親子、母親も同じである。
しかし、それをとけないでいるこの親子、母子に幸福はおとずれない。
真の親子でありながら、理性で理解しようとするその関係性。そこに真の未来はない。
野々宮希和子の罪とは、それほど重いのである。
決して許される罪ではない。
そして、この女に薫との再会、など決して許されない。
そう、もはや薫は存在しないのだから・・・。
それは想い出の中の幻想なのである。
そして、当然恵理菜に逢うことなど・・・・・・・・。
ある意味ここがこの映画の核となる。
偽りの親子、身勝手な行動、そして重大なる、決して許されない罪。
だが、そこにあった愛情は本物であった・・・・・・・。
この先、希和子は薫の写真と共に、その想い出と共に、過去にすがり生きてゆくのだろうか・・・・・。
だが、この女には、子供を産めない希和子にはそれが幸せなのかもしれない。
そして、写真と共にその過去の呪縛と生き続けることが真の罪滅ぼしなのかもしれない。
だが、恵理菜親子は違う。
酷なようだが、この親子は“この世で一番悪い女”を認めなければ生きてはゆけない。
それは罪を許すのではない。本来の親子関係を崩壊させたその重罪を許すことはできない。
特に母は憎みつづけるであろう。
しかし、その女が娘と過ごした事実、その想い出を認識しないと真の親子関係はきづけない。
それは娘も同じである。
それほど、野々宮希和子の罪は重いのだが、これが現実である。
真の親子の間に楽しい想い出はない。
それは過去を封印しているがゆえ。
幼児期の楽しい想い出、それは薫の想い出なのである。
それを互いにしっかりと受け止めないと幸せはおとずれない。
つまり恵理菜には幻想とすることができないのである。
そして、娘以上に辛いのは親、母である。恵理菜は封印をとけばいい、実際に愛された過去がある。だが、親には、母にはとくものがない。娘に愛情を注いだ過去がないのである。これは辛い。だが、互いに心をひらくには、特に娘の心をひらくには、自身の想いだけでは無理なのである。認めたくない事実を受け入れて初めて真の愛情を注ぐことが、愛されることができる・・・・・。
希和子に、そして娘に対し、全く過失がなかったとはいえないこの親には、あまりに大きすぎる代償であったのである・・・・・・。
この作品を鑑賞して痛感した。
人はやはり、いかなる過去も、消し去ることはできない。
辛い想い出も、楽しい想い出も、自身の過去としてしっかりと受け入れ、共にしか生きれないのである。
この親子は、憎しみを抱えながらも、相手はともかくその娘の受けた愛情を認識し、ともに受け入れなければ真の親子にはもはやなれないのである。
娘は、その一歩をようやく踏み出した・・・・・・
恵理菜の幼少期の楽しい想い出、優しい言葉、それはすべて・・・・
現実逃避を続け、自身の想いを優先させていてはもはや先にはすすめない。
過去を恨み、希和子を憎み続けるだけでは真の親子とはなれないのである。
この親子の葛藤は一生つづくであろう。
だが、それを緩和してゆくもの、それは踏み出すことである。
大変酷だが、憎しみだけでは進めない・・・・・・・。
恵理菜には、必要な想い出なのである。
決して消し去ることはできない。
“ここに来たかった。”
そう泣き崩れた彼女。それは過去の封印を解いた瞬間であった・・・・・
ただひとつ、恵理菜は希和子に対してどのような感情をもつのだろうか。
憎しみ・・・・、
だが、当時受けた愛情には素直なはずである。
理性か、真の母への思いか。
やはり、親子関係を崩壊させた、騙された恨みか・・・・。
彼女が生まれてくる自身の子に捧げる優しさ、愛情、それは誰から学んだものなのか・・・・
感謝という感情は微塵もないのか・・・・・・・・
この親子は今からでも、いくらでも想い出は残せる。
現実逃避をしなければ。葛藤をつづければ・・・・・。
希和子を受け入れ、立ち向かい続ければ・・・・・。
つまり罪を憎んで、そして人も憎んでもかまわない。
だが、娘の受けた愛情、その期間と事実は受け入れなくてはならないのである。
ただ、私にはその時の、今、その一歩を踏み出した恵理菜の心情をハッキリと読み取ることはできない・・・・・・・・
そこにはどのような感情があるのか・・・・・・・
そして、八日目の蝉となった彼女は、その新たなる歩みの中で野々宮希和子への対面を望むのだろうか・・・・・
そして、その時発する言葉は・・・・・・
この本編、私には非常に難解なものとなった。
基本、私は主役絶対本意で鑑賞する。
主役が、刑事ならつかまえてほしいし、犯人なら逃げおうせてほしいと想って鑑賞する。
そこに感情移入する。
もちろん、感情移入はするが、映画の中でどう行動するかは全てにおいてわかるわけではない。
わかってしまっては見る価値がなくなるので当たり前だが、全てとはいわないがほとんど作品において、単純な意味で感情移入する。
だが、本作品は薫、いや薫は分かる、
が、恵理菜の感情に移入できない。
あまりにも状況が特殊すぎて、彼女がどう想うのか。
それはただ一点。
野々宮希和子に対する、正直な想いが私には推測することさえもできない・・・・・・・・。
つまり、自身に置き換えたときに、想像では所詮答えがだせないのである・・・・・・・・。
想像することは、あまりにも浅はかすぎて・・・・・・・・。
きっとこうであろうと言うことさえ愚かな気がする。
ただ、母の手前封印していた過去、それを取り戻したい、その気持ちは大いに理解できる・・・・・・・。
そして、このようなことを書くこと自体が私としては、受けた愛情は事実で想い出したい、取り戻したい過去ではあるが、逢いたくないという想いなのだろう・・・・・・。
本作について、母性を描いているのでピンとこないとか、幼少時と現代を交互に描く描写故、恵理菜に感情移入できないなどの記述を目にするが、本当にそうなのであろうか・・・・・・、原因は・・・・・・。
最後に、原作は未読であるが映画の構成はなかなかいい。
本がいいのであろうか。
場面の展開、画のつなぎ方、カット割りも素直なもので、この手の場合それがいい。
重いテーマながら、それほどの重圧感を感じないのは、小豆島の描写というよりも愛の描写故か・・・。
終わり方も映画として、一番いいものであろう。
恵理菜の感情の爆発、新たなる明日への第一歩。
作品のテーマのピークで終わる、まさにクライマックス。
あれ以上のラストはないと私は感じる。
女優陣の演技もまあいいが、私が一番目をひいたのは小池栄子であった・・・・。
永作と森口はある意味で単純である。
それは演技の質という意味ではなく、心情的理解。
そして周囲が評価するほどは素晴らしいとは想わない。
そして主演の井上真央、芝居の程度はまあ・・・・・、
ただ難しかったであろう。
どのような心情で演じたのか・・・・
この作品、希和子と過ごした日々、その優しさに満ちた風景が感動するなどの私に言わせると訳のわからない感想を述べている評論家もいる。
本当に作品を理解しているのだろうか・・・・・・・
プロとしての技術やねらい、つまり映像の解説や評論、そして描くべき核やその心理描写などをきちんと解説及び評論している評論家は少ない。
ただ感想を述べているに過ぎない。
たしかに、自身の映画の知識や文才はあるのであろうが、映像読解力がすぐれているのかといえばそうでない評論家がほとんどである。
「犬神家の一族」の評などみればその実情はあきらか・・・・。
私にいわせると、市川版をきちんと評論している評論家は数少ない。
描くべき核、登場人物の心理などの解説や評論、及び大広間での野々宮珠世の配置、あの金屏風などの市川監督の意図及びそのたの映像的な解説などもきちんとしている評論家は・・・・・・。
感想を述べるのは素人にでもできることで、しかも素人以下のものが多い。
文章力はあるが、映画の中身がない、理解できていない、素人以下の連中が・・・・・・・。
まあ、感想とは見た人が感じるものがすべてなのでどうしようもないのだが。
これは親子、母親も同じである。
しかし、それをとけないでいるこの親子、母子に幸福はおとずれない。
真の親子でありながら、理性で理解しようとするその関係性。そこに真の未来はない。
野々宮希和子の罪とは、それほど重いのである。
決して許される罪ではない。
そして、この女に薫との再会、など決して許されない。
そう、もはや薫は存在しないのだから・・・。
それは想い出の中の幻想なのである。
そして、当然恵理菜に逢うことなど・・・・・・・・。
ある意味ここがこの映画の核となる。
偽りの親子、身勝手な行動、そして重大なる、決して許されない罪。
だが、そこにあった愛情は本物であった・・・・・・・。
この先、希和子は薫の写真と共に、その想い出と共に、過去にすがり生きてゆくのだろうか・・・・・。
だが、この女には、子供を産めない希和子にはそれが幸せなのかもしれない。
そして、写真と共にその過去の呪縛と生き続けることが真の罪滅ぼしなのかもしれない。
だが、恵理菜親子は違う。
酷なようだが、この親子は“この世で一番悪い女”を認めなければ生きてはゆけない。
それは罪を許すのではない。本来の親子関係を崩壊させたその重罪を許すことはできない。
特に母は憎みつづけるであろう。
しかし、その女が娘と過ごした事実、その想い出を認識しないと真の親子関係はきづけない。
それは娘も同じである。
それほど、野々宮希和子の罪は重いのだが、これが現実である。
真の親子の間に楽しい想い出はない。
それは過去を封印しているがゆえ。
幼児期の楽しい想い出、それは薫の想い出なのである。
それを互いにしっかりと受け止めないと幸せはおとずれない。
つまり恵理菜には幻想とすることができないのである。
そして、娘以上に辛いのは親、母である。恵理菜は封印をとけばいい、実際に愛された過去がある。だが、親には、母にはとくものがない。娘に愛情を注いだ過去がないのである。これは辛い。だが、互いに心をひらくには、特に娘の心をひらくには、自身の想いだけでは無理なのである。認めたくない事実を受け入れて初めて真の愛情を注ぐことが、愛されることができる・・・・・。
希和子に、そして娘に対し、全く過失がなかったとはいえないこの親には、あまりに大きすぎる代償であったのである・・・・・・。
この作品を鑑賞して痛感した。
人はやはり、いかなる過去も、消し去ることはできない。
辛い想い出も、楽しい想い出も、自身の過去としてしっかりと受け入れ、共にしか生きれないのである。
この親子は、憎しみを抱えながらも、相手はともかくその娘の受けた愛情を認識し、ともに受け入れなければ真の親子にはもはやなれないのである。
娘は、その一歩をようやく踏み出した・・・・・・
恵理菜の幼少期の楽しい想い出、優しい言葉、それはすべて・・・・
現実逃避を続け、自身の想いを優先させていてはもはや先にはすすめない。
過去を恨み、希和子を憎み続けるだけでは真の親子とはなれないのである。
この親子の葛藤は一生つづくであろう。
だが、それを緩和してゆくもの、それは踏み出すことである。
大変酷だが、憎しみだけでは進めない・・・・・・・。
恵理菜には、必要な想い出なのである。
決して消し去ることはできない。
“ここに来たかった。”
そう泣き崩れた彼女。それは過去の封印を解いた瞬間であった・・・・・
ただひとつ、恵理菜は希和子に対してどのような感情をもつのだろうか。
憎しみ・・・・、
だが、当時受けた愛情には素直なはずである。
理性か、真の母への思いか。
やはり、親子関係を崩壊させた、騙された恨みか・・・・。
彼女が生まれてくる自身の子に捧げる優しさ、愛情、それは誰から学んだものなのか・・・・
感謝という感情は微塵もないのか・・・・・・・・
この親子は今からでも、いくらでも想い出は残せる。
現実逃避をしなければ。葛藤をつづければ・・・・・。
希和子を受け入れ、立ち向かい続ければ・・・・・。
つまり罪を憎んで、そして人も憎んでもかまわない。
だが、娘の受けた愛情、その期間と事実は受け入れなくてはならないのである。
ただ、私にはその時の、今、その一歩を踏み出した恵理菜の心情をハッキリと読み取ることはできない・・・・・・・・
そこにはどのような感情があるのか・・・・・・・
そして、八日目の蝉となった彼女は、その新たなる歩みの中で野々宮希和子への対面を望むのだろうか・・・・・
そして、その時発する言葉は・・・・・・
この本編、私には非常に難解なものとなった。
基本、私は主役絶対本意で鑑賞する。
主役が、刑事ならつかまえてほしいし、犯人なら逃げおうせてほしいと想って鑑賞する。
そこに感情移入する。
もちろん、感情移入はするが、映画の中でどう行動するかは全てにおいてわかるわけではない。
わかってしまっては見る価値がなくなるので当たり前だが、全てとはいわないがほとんど作品において、単純な意味で感情移入する。
だが、本作品は薫、いや薫は分かる、
が、恵理菜の感情に移入できない。
あまりにも状況が特殊すぎて、彼女がどう想うのか。
それはただ一点。
野々宮希和子に対する、正直な想いが私には推測することさえもできない・・・・・・・・。
つまり、自身に置き換えたときに、想像では所詮答えがだせないのである・・・・・・・・。
想像することは、あまりにも浅はかすぎて・・・・・・・・。
きっとこうであろうと言うことさえ愚かな気がする。
ただ、母の手前封印していた過去、それを取り戻したい、その気持ちは大いに理解できる・・・・・・・。
そして、このようなことを書くこと自体が私としては、受けた愛情は事実で想い出したい、取り戻したい過去ではあるが、逢いたくないという想いなのだろう・・・・・・。
本作について、母性を描いているのでピンとこないとか、幼少時と現代を交互に描く描写故、恵理菜に感情移入できないなどの記述を目にするが、本当にそうなのであろうか・・・・・・、原因は・・・・・・。
最後に、原作は未読であるが映画の構成はなかなかいい。
本がいいのであろうか。
場面の展開、画のつなぎ方、カット割りも素直なもので、この手の場合それがいい。
重いテーマながら、それほどの重圧感を感じないのは、小豆島の描写というよりも愛の描写故か・・・。
終わり方も映画として、一番いいものであろう。
恵理菜の感情の爆発、新たなる明日への第一歩。
作品のテーマのピークで終わる、まさにクライマックス。
あれ以上のラストはないと私は感じる。
女優陣の演技もまあいいが、私が一番目をひいたのは小池栄子であった・・・・。
永作と森口はある意味で単純である。
それは演技の質という意味ではなく、心情的理解。
そして周囲が評価するほどは素晴らしいとは想わない。
そして主演の井上真央、芝居の程度はまあ・・・・・、
ただ難しかったであろう。
どのような心情で演じたのか・・・・
この作品、希和子と過ごした日々、その優しさに満ちた風景が感動するなどの私に言わせると訳のわからない感想を述べている評論家もいる。
本当に作品を理解しているのだろうか・・・・・・・
プロとしての技術やねらい、つまり映像の解説や評論、そして描くべき核やその心理描写などをきちんと解説及び評論している評論家は少ない。
ただ感想を述べているに過ぎない。
たしかに、自身の映画の知識や文才はあるのであろうが、映像読解力がすぐれているのかといえばそうでない評論家がほとんどである。
「犬神家の一族」の評などみればその実情はあきらか・・・・。
私にいわせると、市川版をきちんと評論している評論家は数少ない。
描くべき核、登場人物の心理などの解説や評論、及び大広間での野々宮珠世の配置、あの金屏風などの市川監督の意図及びそのたの映像的な解説などもきちんとしている評論家は・・・・・・。
感想を述べるのは素人にでもできることで、しかも素人以下のものが多い。
文章力はあるが、映画の中身がない、理解できていない、素人以下の連中が・・・・・・・。
まあ、感想とは見た人が感じるものがすべてなのでどうしようもないのだが。