「おとうと」 50年の時を経て蘇った、市川崑に捧ぐ1本。 邦画の力を痛感・・・・・
市川崑監督作品「おとうと」に捧ぐ・・・・・。
映画の終わりにこの言葉がクレジットされます。
そう、この作品、山田洋次監督のオリジナル脚本だと思っている方も多いようだが、この作品は、原作が幸田露伴の次女、幸田文の著書「おとうと」が原作で、今までに何度か映像化されています。
映画では、1960年に大映で市川監督が映画化し、映画史上初の日本で開発された“銀残し”という技法(洋画セブン等で使用されたセピアのような技法)を使い、独特の映像美で、その映像職人としての技術から、画の美しさ故に、市川芸術の極致とも評された作品が代表的。
参照:『“映画は、所詮、光と影。” ~市川崑監督を偲ぶ・・・ (つづき)』
その市川監督の「おとうと」から50年を経た現在、この市川作品へのオマージュをこめて山田監督が、現代の問題をとりえれた脚本に仕上げ、撮りあげた作品。
倒れた弟と一緒に鍋焼きうどんを食べるシーンや、姉弟がリボンでつながるシーンなどは市川版よりオマージュをこめ継承したシーンである。
「おとうと」 2010年 松竹
監督 山田洋次
原作 幸田 文
脚本 山田洋次
平松恵美子
主演 吉永小百合
とても山田洋次らしい作品。
とても優しい温かい作品です。
また、その中で描かれる人間の最期。
とても共感がもてる、そう、私個人としてはとても共感する人間のおくりかただと感じました。
これが人間として生き抜くということなんだと、そしてこれがもっとも温かく、優しいあり方なんだと痛感し、
死にゆく描写も当然泣けますが、死そのものよりも、
本人を含めた人々の死への接し方、人間の送り方、その優しさと愛情に深く涙してしまいました。
話自体はとても単純です。
また、この中で、加藤治子演じる義母の描き方がとてもおろしろく、ユーモアと同時にシビアな描写で、またこれが最後のシーンへ必要性だったのだとラストで納得しました。
おもわず熱くなる、静かな終わり方・・・・・。
この作品に関しては、抜群のキャスティングだったと感じます。
ただ、個人的に演技面ではサユリストを敵にまわしたくはありませんが、サユリっちゃんの演技はまあ、いつものとおり・・、釣瓶の演技もいいんですが、私は、私はあまり好きではない・・・・・・。
またこの作風として、山田ワールドとして映画的な部分も承知の上で飲み込み、楽しめたのだが、大きな点より、本当にささいなこと、大工にしては腰にまいた道具類が電気屋のようで(劇中はなんでも屋と化していたからいいのだろうが)違和感を感じた。
所謂クサさを許せるんですが、こういう点は気になってしまうのです・・・・・。
そして、以前にも同じようなことを記述しましたが、基本的にカットを割るのが好きな私だが、前日、さまざな洋画の予告編・そして本編で目がいたくなるような最近の早いカット割を見たあと、この山田ワールドは私としては、非常にホッとする落ち着きを、安堵を感じる。
市川崑監督が口にした、
「映画にならない題材はない。」
そして、山田洋次監督も『黄色いハンカチ』のときに、原作の『幸せの黄色いリボン』を聴いて、
“これに若い男女を絡めれば映画化は可能だ”
(ただ、主役にかなりの魅力のある人物でないと興行的にはなりたたない)
と言ったとおり、ある程度の線で映画はできるとのその姿勢。
まさにそれを感じさせる作品。
いや、前日に非現実的な設定の作品を鑑賞しただけに余計に、
その虚像の映像世界を楽しむのが正に娯楽だが、
こちらも現実通りとはいわないが、日常を描くことが真の映画ではないかと、
それこそが、それを大スクリーンで鑑賞することが、娯楽なのではないかと
なんてことのないシーン、会話が、作品として成立することこそが映画のすごさ、
娯楽なのではないのかと、
痛切に実感した。
と、同時に、
今の時代だからこそ、こういう作品を見なければいけないと、
このような作品を素直な目で鑑賞し、何かを感じる心が日本人には必要だと、
私は強く、そうも痛感した。
映画の描写で現実性を求めすぎ、映画的な表現・描写を受け入れず、また時代にあわない作りや台詞だということで、所詮作り物である映画を楽しんで鑑賞せず、
批判することが通だと思っている、アラ探しする連中が多すぎる・・・・・。
プロの評論家も含めて・・・・・・・。
(批評家連中は仕事として勉強なり、数多くみたことによる知識はあるが、鑑賞能力、映像を読解力が、つまりその感性が決して優れているとは限らない。ただ、人にその思いを伝える能力、表現力なり文章力は優れている。が、その思いが必ずしも的確とはいえない。所詮、見た者の思いなので、素人もプロもないのである。
本数をみることで、年に一、二回しかみない方とは明らかに違うが、数多くみている一般鑑賞者と鑑賞する能力が違うかというと決してそうではない。
いや、素直に内容を受け止めるという点では、年に一度しか鑑賞しない方のが優れた感性かもしれない。
実際に、そう思わせる批評家が多くいる・・・・。)
まあ、本人たちはそう思っていないのかもしれませんが、私にはそうとしか思えない。
結局、大きなお世話で、映画の感じ方は、好みもあり、人それぞれ。
とどのつまりは、プロも一般人もその人の感性なのでどうしようない。
だからこそ、私としては意識的ではないとしたら、なんてつまらない見方をしているのだろうとしか思えず、残念です。
一般大衆に、映画の技法や、技術など関係ないのである。
ただ、スクリーンに入り込む、全てはそのためだけに・・・・・。
ただ、所詮、つくりものである映画、その点はどんな作品においても許容すべき部分が存在する。
また、それが受け入れられず、現実性ばかり追い求め、気になり冷めてしまうようなら、私は、私としては映画ファンとして可哀相にさえ思います。
映画を批判することだけを目的として鑑賞するなら別ですが、映画を鑑賞するとは、映画を楽しもうとすることです。
もちろん、その心づもりで鑑賞しても酷評に値する作品は残念ながらあります。
しかし、基本は、娯楽である映画を楽しむ。芸術なんてものをみるのではないのです。
映画を楽しむとは、その映画を理解することです。
その作品の作風を、いや、やはりその作品自体を理解して、真にその映画を鑑賞したといえます。
つまり、あらゆる作品を常に同じ目で、固定された同じ目で鑑賞することは、批評する上では重要な点ではありますが、一般人が、映画を楽しむ上では、その固定目線は邪魔となります。
映画の楽しみが半減する。
映画を楽しむ、理解するには、それぞれの作品を柔軟な目で鑑賞しなければなりません。
そして、更にははこれは真に理解する上で、批評する上でも、つまりプロでもそうですが、
一つの作品の中で、その場面場面を柔軟な目で、鑑賞しなくてはなりません。
そう、様々な作品、そしてシーンに対応する柔軟なバランス感覚が絶対に必要なのです。
固定された目で、時代性や現実性だけを問うては作品は楽しません。
柔軟なバランス感覚をもって鑑賞することによって、
役者の台詞をかみしめられ、表面の画ヅラだけをおい現実性との比較で鑑賞するのではなく、登場人物の心の動きを追え、その表現を、場面を楽しめるのです。
そうすれば、液状にしたものしか食べられない人間が鍋焼きうどんを食べるなど、オマージュを無理に継承するような現実味がないシーンなどという、ひねくれた感想はなくなるのである。
心の動きを全くおえていない。
最期を迎えた人間がすりつぶしたリンゴなどを食べたがると思いますか?
食べたいものを要求するに決まっています。液状しか口にしていないなら尚更のこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
そして、それを口にしたシーン、ほんのひとちぎりですよ・・・・・・・・・・・・。
この書かれた方を侮辱したり、攻撃するつもりはありませんが、本心として、私は、信じられなかった。
私には素直に鑑賞できないことが哀しくてしょうがありません・・・・・・・。
そして、バランス感覚が一つの作品の中の緩急をよみとり、描写や演出の意図を知ることができてきます。
シビアな中にユーモアが隠れている場合や、その逆もあります。画ヅラだけをおっているとつまらない感想となってしまう場合があります。
もちろん、そのままの場合もあり、それが柔軟なバランス感覚で理解できる点だとも思います。
この点が欠如しているプロを含めた批評家が多すぎる気がします・・・・・・。
さまざまな記事、感想を読ませていたき、皆さんが感じたままを書いている通り、
私自身も素直に思ったことを追記したのですが、
でも、これが映画なんですね。
どう感じてもいい。もちろん、違う意見なり感想は人間ですから面白くはありません。故にその点も正直に上記の記述した通りですが、
ただ、鑑賞した方が感じること、それがすべて、それがその人のその映画なのです・・・・。
いかに監督にねらいがあったとしても結局は見た人のものとなる。
つまり、人それぞれ。
とにかく、なによりも鑑賞することが大事なのです。
なかにはこの手の作品は、鑑賞さえしたくないという話にならない、とても残念な方もいるようで・・・・・・・・・・・・
そして、できれば愛情をもって・・・・。
これは全てを良しとしろと言うのでは当然ありません。ただ映画を愛情をもって楽しんで鑑賞していただきたい。
厳しい目を持つことなど鑑賞する側は意識する必要、持つ必要など全くないのです。
それはあくまでも作り手が意識すること。
見る側に、客にそんなことをさせるのは作り手の甘え以外何者でもない。
作り手がいい物を作り続ければ、鑑賞者は質の低い作品を見ずにすむのですから。
それを逆だと思っているかたがいる・・・・・。
大衆の娯楽である映画、所詮それが映画。
見る側は特別な目など必要ないのです。
これは上記の記述と矛盾するようですが、映画を楽しむ心がまえと、画に集中することは必要です。
それによっておのずと・・・・・。
(もちろん、通の方はその自負する見方をすればいい。だが全ての人が評論家である必要はないのである。)
だが、何を記述してもやはり最後は、その人の感性・・・・・、それが研ぎ澄まされているかどうか、なんですよね。
それが結局はどれだけ、素直にスクリーンに入り込めるかどうか、私を含め御託を並べずにどれだけその映像世界に入り込め、感じれるかどうかなんです。
一部の通ぶった連中の作品選択、作品拒絶は、私は、うんざりなんですよ。
(その点は、私がよくおじゃまする
プロフェッサー・オカピーの部屋[別館] のオカピーさんは本当に映画がお好きで、知識もあり、あらゆるカテゴリーの洋画・邦画を鑑賞される点、本当に尊敬いたします。)
とにかく、私は、特に外国語が話せない日本人はもっと邦画を鑑賞すべきだと強く想います。
とくにこの手の作品を理解して、楽しむことが必要なのです。
私が素晴らしい洋画をみて、いかに感動、感激し、夢中に楽しんでも、邦画ほど心の奥に響かないのは、
描かれる中にみられる
生活習慣、伝統、そしてなによりやはり原語の力、そう、私が日本人であるからであろう。
外国語を話せない人間にとっては、アテなどではなく演者が直接発した台詞が、
それが、直に理解できる言葉に優る台詞は絶対に存在しないのである。
それをあらためて痛感させたくれた素晴らしい作品でした。
そして、演技どうこうというよりも、
あの年齢になりながらも、決して脇にまわることなく、映画で主演をはりつづける、
やはり日本で最後の映画女優、吉永小百合。
彼女の主演というのは、いかに山田洋次監督作品であろうとも、大きいであろう。
映画自体、その内容も当然そうだが、記事冒頭に記述した市川崑監督に捧ぐの文字を目にし、
久々に、心があたたかくなった。
さすが山田洋次。
【追記】
ある程度は覚悟というか、わかってはいましたが、そして自身でも多少のその感じは鑑賞して受けましたが、
やはり、予想通りに、
手厳しい意見を書かれている記事が多いように見受けられます。
現実性や、時代性、その辻褄などを気にし、その、所詮虚像である映像世界に入り込めないのは、映画を見る上でとても損失です。
繰り返しますが、作風を理解することです。
私にいわせればつまらない批判をする人が多すぎる・・・・・・・
とても残念なことです。
ただ、私は違いました。
まあ、感性の違いなんでしょうね・・・・・。
私は、
山田洋次の力を、邦画の力を痛感した一本でした・・・・・・。
【再追記】
山田監督、10年ぶりの現代劇である本作。
「男はつらいよ」が渥美清氏の死によって打ち切りになり、業績が悪化した松竹は2000年に現代劇の撮影所だった大船撮影所を閉鎖し、売却してしまう。
これにより、松竹は京都の時代劇の撮影所を所有するのみとなる。
主力シリーズだった「釣りバカ日誌」は東映東京撮影所で撮影され、本作も東宝の撮影所で撮影された。
山田監督が現代劇から遠ざかったのはこのようなことが影響しているとも思えるが、ご高齢ではあるが、市川監督の年位まで現役でまだまだ、現代劇ももっと撮り続けてもらいたいものである。
映画の終わりにこの言葉がクレジットされます。
そう、この作品、山田洋次監督のオリジナル脚本だと思っている方も多いようだが、この作品は、原作が幸田露伴の次女、幸田文の著書「おとうと」が原作で、今までに何度か映像化されています。
映画では、1960年に大映で市川監督が映画化し、映画史上初の日本で開発された“銀残し”という技法(洋画セブン等で使用されたセピアのような技法)を使い、独特の映像美で、その映像職人としての技術から、画の美しさ故に、市川芸術の極致とも評された作品が代表的。
参照:『“映画は、所詮、光と影。” ~市川崑監督を偲ぶ・・・ (つづき)』
その市川監督の「おとうと」から50年を経た現在、この市川作品へのオマージュをこめて山田監督が、現代の問題をとりえれた脚本に仕上げ、撮りあげた作品。
倒れた弟と一緒に鍋焼きうどんを食べるシーンや、姉弟がリボンでつながるシーンなどは市川版よりオマージュをこめ継承したシーンである。
「おとうと」 2010年 松竹
監督 山田洋次
原作 幸田 文
脚本 山田洋次
平松恵美子
主演 吉永小百合
とても山田洋次らしい作品。
とても優しい温かい作品です。
また、その中で描かれる人間の最期。
とても共感がもてる、そう、私個人としてはとても共感する人間のおくりかただと感じました。
これが人間として生き抜くということなんだと、そしてこれがもっとも温かく、優しいあり方なんだと痛感し、
死にゆく描写も当然泣けますが、死そのものよりも、
本人を含めた人々の死への接し方、人間の送り方、その優しさと愛情に深く涙してしまいました。
話自体はとても単純です。
また、この中で、加藤治子演じる義母の描き方がとてもおろしろく、ユーモアと同時にシビアな描写で、またこれが最後のシーンへ必要性だったのだとラストで納得しました。
おもわず熱くなる、静かな終わり方・・・・・。
この作品に関しては、抜群のキャスティングだったと感じます。
ただ、個人的に演技面ではサユリストを敵にまわしたくはありませんが、サユリっちゃんの演技はまあ、いつものとおり・・、釣瓶の演技もいいんですが、私は、私はあまり好きではない・・・・・・。
またこの作風として、山田ワールドとして映画的な部分も承知の上で飲み込み、楽しめたのだが、大きな点より、本当にささいなこと、大工にしては腰にまいた道具類が電気屋のようで(劇中はなんでも屋と化していたからいいのだろうが)違和感を感じた。
所謂クサさを許せるんですが、こういう点は気になってしまうのです・・・・・。
そして、以前にも同じようなことを記述しましたが、基本的にカットを割るのが好きな私だが、前日、さまざな洋画の予告編・そして本編で目がいたくなるような最近の早いカット割を見たあと、この山田ワールドは私としては、非常にホッとする落ち着きを、安堵を感じる。
市川崑監督が口にした、
「映画にならない題材はない。」
そして、山田洋次監督も『黄色いハンカチ』のときに、原作の『幸せの黄色いリボン』を聴いて、
“これに若い男女を絡めれば映画化は可能だ”
(ただ、主役にかなりの魅力のある人物でないと興行的にはなりたたない)
と言ったとおり、ある程度の線で映画はできるとのその姿勢。
まさにそれを感じさせる作品。
いや、前日に非現実的な設定の作品を鑑賞しただけに余計に、
その虚像の映像世界を楽しむのが正に娯楽だが、
こちらも現実通りとはいわないが、日常を描くことが真の映画ではないかと、
それこそが、それを大スクリーンで鑑賞することが、娯楽なのではないかと
なんてことのないシーン、会話が、作品として成立することこそが映画のすごさ、
娯楽なのではないのかと、
痛切に実感した。
と、同時に、
今の時代だからこそ、こういう作品を見なければいけないと、
このような作品を素直な目で鑑賞し、何かを感じる心が日本人には必要だと、
私は強く、そうも痛感した。
映画の描写で現実性を求めすぎ、映画的な表現・描写を受け入れず、また時代にあわない作りや台詞だということで、所詮作り物である映画を楽しんで鑑賞せず、
批判することが通だと思っている、アラ探しする連中が多すぎる・・・・・。
プロの評論家も含めて・・・・・・・。
(批評家連中は仕事として勉強なり、数多くみたことによる知識はあるが、鑑賞能力、映像を読解力が、つまりその感性が決して優れているとは限らない。ただ、人にその思いを伝える能力、表現力なり文章力は優れている。が、その思いが必ずしも的確とはいえない。所詮、見た者の思いなので、素人もプロもないのである。
本数をみることで、年に一、二回しかみない方とは明らかに違うが、数多くみている一般鑑賞者と鑑賞する能力が違うかというと決してそうではない。
いや、素直に内容を受け止めるという点では、年に一度しか鑑賞しない方のが優れた感性かもしれない。
実際に、そう思わせる批評家が多くいる・・・・。)
まあ、本人たちはそう思っていないのかもしれませんが、私にはそうとしか思えない。
結局、大きなお世話で、映画の感じ方は、好みもあり、人それぞれ。
とどのつまりは、プロも一般人もその人の感性なのでどうしようない。
だからこそ、私としては意識的ではないとしたら、なんてつまらない見方をしているのだろうとしか思えず、残念です。
一般大衆に、映画の技法や、技術など関係ないのである。
ただ、スクリーンに入り込む、全てはそのためだけに・・・・・。
ただ、所詮、つくりものである映画、その点はどんな作品においても許容すべき部分が存在する。
また、それが受け入れられず、現実性ばかり追い求め、気になり冷めてしまうようなら、私は、私としては映画ファンとして可哀相にさえ思います。
映画を批判することだけを目的として鑑賞するなら別ですが、映画を鑑賞するとは、映画を楽しもうとすることです。
もちろん、その心づもりで鑑賞しても酷評に値する作品は残念ながらあります。
しかし、基本は、娯楽である映画を楽しむ。芸術なんてものをみるのではないのです。
映画を楽しむとは、その映画を理解することです。
その作品の作風を、いや、やはりその作品自体を理解して、真にその映画を鑑賞したといえます。
つまり、あらゆる作品を常に同じ目で、固定された同じ目で鑑賞することは、批評する上では重要な点ではありますが、一般人が、映画を楽しむ上では、その固定目線は邪魔となります。
映画の楽しみが半減する。
映画を楽しむ、理解するには、それぞれの作品を柔軟な目で鑑賞しなければなりません。
そして、更にははこれは真に理解する上で、批評する上でも、つまりプロでもそうですが、
一つの作品の中で、その場面場面を柔軟な目で、鑑賞しなくてはなりません。
そう、様々な作品、そしてシーンに対応する柔軟なバランス感覚が絶対に必要なのです。
固定された目で、時代性や現実性だけを問うては作品は楽しません。
柔軟なバランス感覚をもって鑑賞することによって、
役者の台詞をかみしめられ、表面の画ヅラだけをおい現実性との比較で鑑賞するのではなく、登場人物の心の動きを追え、その表現を、場面を楽しめるのです。
そうすれば、液状にしたものしか食べられない人間が鍋焼きうどんを食べるなど、オマージュを無理に継承するような現実味がないシーンなどという、ひねくれた感想はなくなるのである。
心の動きを全くおえていない。
最期を迎えた人間がすりつぶしたリンゴなどを食べたがると思いますか?
食べたいものを要求するに決まっています。液状しか口にしていないなら尚更のこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
そして、それを口にしたシーン、ほんのひとちぎりですよ・・・・・・・・・・・・。
この書かれた方を侮辱したり、攻撃するつもりはありませんが、本心として、私は、信じられなかった。
私には素直に鑑賞できないことが哀しくてしょうがありません・・・・・・・。
そして、バランス感覚が一つの作品の中の緩急をよみとり、描写や演出の意図を知ることができてきます。
シビアな中にユーモアが隠れている場合や、その逆もあります。画ヅラだけをおっているとつまらない感想となってしまう場合があります。
もちろん、そのままの場合もあり、それが柔軟なバランス感覚で理解できる点だとも思います。
この点が欠如しているプロを含めた批評家が多すぎる気がします・・・・・・。
さまざまな記事、感想を読ませていたき、皆さんが感じたままを書いている通り、
私自身も素直に思ったことを追記したのですが、
でも、これが映画なんですね。
どう感じてもいい。もちろん、違う意見なり感想は人間ですから面白くはありません。故にその点も正直に上記の記述した通りですが、
ただ、鑑賞した方が感じること、それがすべて、それがその人のその映画なのです・・・・。
いかに監督にねらいがあったとしても結局は見た人のものとなる。
つまり、人それぞれ。
とにかく、なによりも鑑賞することが大事なのです。
なかにはこの手の作品は、鑑賞さえしたくないという話にならない、とても残念な方もいるようで・・・・・・・・・・・・
そして、できれば愛情をもって・・・・。
これは全てを良しとしろと言うのでは当然ありません。ただ映画を愛情をもって楽しんで鑑賞していただきたい。
厳しい目を持つことなど鑑賞する側は意識する必要、持つ必要など全くないのです。
それはあくまでも作り手が意識すること。
見る側に、客にそんなことをさせるのは作り手の甘え以外何者でもない。
作り手がいい物を作り続ければ、鑑賞者は質の低い作品を見ずにすむのですから。
それを逆だと思っているかたがいる・・・・・。
大衆の娯楽である映画、所詮それが映画。
見る側は特別な目など必要ないのです。
これは上記の記述と矛盾するようですが、映画を楽しむ心がまえと、画に集中することは必要です。
それによっておのずと・・・・・。
(もちろん、通の方はその自負する見方をすればいい。だが全ての人が評論家である必要はないのである。)
だが、何を記述してもやはり最後は、その人の感性・・・・・、それが研ぎ澄まされているかどうか、なんですよね。
それが結局はどれだけ、素直にスクリーンに入り込めるかどうか、私を含め御託を並べずにどれだけその映像世界に入り込め、感じれるかどうかなんです。
一部の通ぶった連中の作品選択、作品拒絶は、私は、うんざりなんですよ。
(その点は、私がよくおじゃまする
プロフェッサー・オカピーの部屋[別館] のオカピーさんは本当に映画がお好きで、知識もあり、あらゆるカテゴリーの洋画・邦画を鑑賞される点、本当に尊敬いたします。)
とにかく、私は、特に外国語が話せない日本人はもっと邦画を鑑賞すべきだと強く想います。
とくにこの手の作品を理解して、楽しむことが必要なのです。
私が素晴らしい洋画をみて、いかに感動、感激し、夢中に楽しんでも、邦画ほど心の奥に響かないのは、
描かれる中にみられる
生活習慣、伝統、そしてなによりやはり原語の力、そう、私が日本人であるからであろう。
外国語を話せない人間にとっては、アテなどではなく演者が直接発した台詞が、
それが、直に理解できる言葉に優る台詞は絶対に存在しないのである。
それをあらためて痛感させたくれた素晴らしい作品でした。
そして、演技どうこうというよりも、
あの年齢になりながらも、決して脇にまわることなく、映画で主演をはりつづける、
やはり日本で最後の映画女優、吉永小百合。
彼女の主演というのは、いかに山田洋次監督作品であろうとも、大きいであろう。
映画自体、その内容も当然そうだが、記事冒頭に記述した市川崑監督に捧ぐの文字を目にし、
久々に、心があたたかくなった。
さすが山田洋次。
【追記】
ある程度は覚悟というか、わかってはいましたが、そして自身でも多少のその感じは鑑賞して受けましたが、
やはり、予想通りに、
手厳しい意見を書かれている記事が多いように見受けられます。
現実性や、時代性、その辻褄などを気にし、その、所詮虚像である映像世界に入り込めないのは、映画を見る上でとても損失です。
繰り返しますが、作風を理解することです。
私にいわせればつまらない批判をする人が多すぎる・・・・・・・
とても残念なことです。
ただ、私は違いました。
まあ、感性の違いなんでしょうね・・・・・。
私は、
山田洋次の力を、邦画の力を痛感した一本でした・・・・・・。
【再追記】
山田監督、10年ぶりの現代劇である本作。
「男はつらいよ」が渥美清氏の死によって打ち切りになり、業績が悪化した松竹は2000年に現代劇の撮影所だった大船撮影所を閉鎖し、売却してしまう。
これにより、松竹は京都の時代劇の撮影所を所有するのみとなる。
主力シリーズだった「釣りバカ日誌」は東映東京撮影所で撮影され、本作も東宝の撮影所で撮影された。
山田監督が現代劇から遠ざかったのはこのようなことが影響しているとも思えるが、ご高齢ではあるが、市川監督の年位まで現役でまだまだ、現代劇ももっと撮り続けてもらいたいものである。